初のチャッティースガリー語映画

ンド中部にチャッティースガル州という州がある。2000年11月1日にマディヤ・プラデーシュ州から分離した比較的新しい州である。州都はラーイプル。このチャッティースガル州はヒンディー語圏内に入るが、同州で話されているヒンディー語は一般にチャッティースガリー語またはチャッティースガリー方言と呼ばれている。チャッティースガル州は2006年に一通り旅行したことがあり、個人的に思い出深い土地のひとつだ。

 2015年4月30日付けのタイムス・オブ・インディア紙に、初めて作られたチャッティースガリー語映画について記事が掲載されていた。今回はその記事のメモになる。

 

 実は、今年はチャッティースガリー語映画――愛称はチョリウッド(Chhollywood)――の始まりからちょうど50周年に当たる。初のチャッティースガル語映画を作ったのはマヌ・ナーヤクという人物で、その映画のタイトルは「Kahi Debe Sandesh(言づてを伝えて)」である。だが、何事においても初物には紆余曲折が付きまとうもので、この「Kahi Debe Sandesh」にも様々な苦労話があった。

 ラーイプル出身のナーヤクは1957年、19歳の頃にボンベイに渡り、いくつかの職を転々とした後、映画制作会社アヌパム・チトラで働き出す。アヌパム・チトラは、映画監督マヘーシュ・カウル、脚本家パンディト・ムクラーム・シャルマー、そして後にプロデューサーとなるNCスィッピーなどが運営していた。ナーヤクはアヌパム・チトラで働く内に脚本の書き方や映画ビジネスを学んだ。

 1962年、初のボージプリー語映画「Ganga Maiyya Tohe Piyari Chadhaibo(母なるガンガー河よ、あなたに黄色いサーリーを捧げます)」が公開される。ボージプリー語はウッタル・プラデーシュ州東部からビハール州西部にかけて話されているヒンディー語の方言である。この映画は大ヒットとなり、映画業界では方言映画が一躍トレンドとなる。ナーヤクもこの頃、チャッティースガリー語の映画を作る夢を抱く。

 まずナーヤクは、人気歌手ムハンマド・ラフィーに「Jhamkat Nadiya Bahini Laage(流れる川は私の姉妹)」という歌を歌ってもらう。音楽監督はマライ・チャクラボルティーという人物だった。彼はポケットマネーからラフィーに報酬として400ルピーを支払ったが、その後は親戚や友人から借金をして資金を集めた。

 主演男優の第一候補はサルマーン・カーンの父親サリーム・カーンであった。しかし、他の映画の撮影が入ったために辞退となった。主演女優の第一候補だったマーダヴィーも降板となった。最終的に主演男優を務めたのはカーン・モーハンという俳優だった。彼は初のスィンディー語映画「Abana」(1958年)の主演だった。ヒロインには新人のウマーを抜擢した。

 映画の撮影は、ラーイプルから70kmの地点にあるパラーリー村で1964年11月から12月の間に行われた。しかし、フィルムを使い果たしたため、22日でロケは終了し、残りの部分はボンベイで撮影された。

 やっとのことで映画は完成したものの、今度は配給業者を探すのに苦労した。結局ナーヤクは自分で配給まで行った。

 ただ、「Kahi Debe Sandesh」は、指定カースト(不可触民)の男性とブラーフマンの女性のインターカースト・ロマンスを扱っていた。ラーイプルに住むブラーフマンはこれを問題視し、映画の上映中止を求めて抗議活動を行った。しかし、地方では上映に漕ぎ着け、1965年4月16日にプレミア上映が行われた。ラーイプルで上映が叶ったのは9月に入ってからであったが、噂によると当時、情報放送大臣をしていたインディラー・ガーンディーが介入し、「Kahi Debe Sandesh」の上映を認めるように働きかけたからだと言われている。その後、「Kahi Debe Sandesh」は劇場の他、移動映画館や村の祭りなどで上映された。ナーヤクは「Kahi Debe Sandesh」の上映によって得た金で、2年の間に借金を返済したと言う。

 ナーヤクは、初のチャッティースガリー語映画のプロデューサー・監督として歴史に名を残したものの、その後は映画を作っていない。「Kahi Debe Sandesh」以降、40年以上に渡って、ヒンディー語映画のプロダクション・アシスタントとして働いている。

 チャッティースガリー語映画産業の方も、「Kahi Debe Sandesh」以降、1971年に2作目が作られただけで、30年間1本も作られない時期が続いた。結局、「Kahi Debe Sandesh」を含め、興行的に成功しなかったのが原因のようだ。ただ、チャッティースガル州分離の直前に公開された「Mor Chhaihan Bhuinya(私の影と大地)」(2000年)が大ヒットし、地元映画産業は息を吹き返した。年間の制作本数はボージプリー語映画ほどではないものの、コンスタントにヒット作も出ているようである。

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