映画

 かつてインドに住んでいた頃(2001-13年)は毎週映画館に足を運び、最新ヒンディー語映画を鑑賞して、逐一レビューを書いては公開していた。当時書いたレビューについては「これでインディア」の映画評早見表を参照のこと。日本に戻って来てからは最新映画を公開と同時に観ることは不可能となってしまい、日本の一般インド映画ファン同様、DVDが手に入った映画から細々と鑑賞している。「映画は映画館で観るもの、それ以外の手段で観たら批評はしない」という譲れない信条があるため、DVDで観た映画について、以前のような詳細なレビューはしない。しかしながら、インド映画はなかなか奥が深く、それを隅々まで理解するには、やはり語学力とインドの深い知識が必要となる。もしかしたら日本ではなかなかそこまでの深みにダイブする覚悟でインド映画を鑑賞している人はいないかもしれない。そんな勝手な使命感から、メモ程度に、そして批評にならない程度に、DVDで鑑賞した映画について書いて行くことにする。本ブログでは2013年以降のインド映画が中心となる。

新着記事

Jal

資源はインドにとって非常に大きな問題である。大きな視点から見ていくと、まずインドは隣国と水資源を巡る問題を抱えている。特にインド東北部の生命線であるブラフマプトラ河は中国を源流としており、インドの悩みの種だ。中国はこの河に巨大なダムを建設しており、インドに無言の圧力をかけ続けている。さらに、同じく水資源不足の中国は、ブラフマプトラ河の流れを変えて自国に引き込もうとしているとの噂もあり、そうなればインド東北部は干上がってしまう。この点でインドは中国に対して非常に不利な立場に立たされている。一方、パーキスターンの生命線であるインダス河やその支流の源流はインドにあり、こちらではインドの方が優位に立っている。印パの間ではインダス水資源協定が結ばれており、水資源を外交の道具とすることは避けられているが、最近、パーキスターン主導と見られるテロに悩まされたインドはこの協定の見直しをちらつかせ、パーキスターンに圧力をかけたことがあった。

 国内においても、州をまたいで流れる河川の水資源利用は、州間の政争の火種となりやすい。カーヴェーリー河を巡るカルナータカ州とタミル・ナードゥ州の争い、ナルマダー河を巡るグジャラート州とマディヤ・プラデーシュ州の争い、ヤムナー河を巡るデリーとハリヤーナー州の争いなど、各地で対立が発生している。また、インドでは多くの地域で灌漑がされておらず、モンスーンに頼った乾地農業を行っている。よって、モンスーン期の降雨量によって農作物の生産量が大幅に変動し、農民たちの生活のみならず、経済全体に少なからず影響を与えている。農業、工業また生活用水の水不足解消のために地下水のくみ上げが積極的に行われた結果、地下水位が急激に下がっているという問題もある。環境汚染は言わずもがなで、都市部を中心に河川の汚染は最悪レベルである。

 水資源は、とうとう映画人たちの関心事にもなってきている。例えば、国際的に活躍するインド人監督シェーカル・カプールは、水不足をテーマにした映画「Paani」の制作を発表している。ただ、この作品の撮影は棚上げされており、まだ完成していない。一方、新人監督ギリーシュ・マリクの「Jal」は、インドで2014年4月4日に公開された。グジャラート州にあるカッチ大湿地に住む人々の水を巡る苦闘が描かれた作品であり、水問題をローカルな視点で取り上げているだけだが、映画の最後に「世界の人口のおよそ5分の1が水の不足した地域に住んでいる」「2025年までに世界の人口の約半分、少なくとも35億人が水不足に直面する」といったメッセージが加えられており、明らかにより大きな視点に水不足の問題を引き上げようとする努力が見られる。

Jal

(さらに…)

Qissa (Punjabi)

系社会では家系の存続のために女児よりも男児の方が喜ばれる傾向が強く、特にインドではそれが今でも顕著である。また、インド特有の問題として、婚姻時に花嫁の家族が花婿の家族に多額の持参金を渡す必要がある。単純に言えば、男児が生まれれば収入になるし、女児が生まれれば損失となる。そのような社会構造であるため、女児を厭うのみならず、女児の堕胎や間引きという積極的な行為が長らく行われてきた。結果、男女比に破綻が起こっている。2011年の国勢調査では、男性1000に対して女性が940。自然界の正常な数値は950ほどとされるので、それと比べるとわずかに少ないだけに見える。だが、子供(0-6歳児)の男女比にすると918となり、明らかに少ない数字となる。さらに、これはインド全体の平均値であり、州別に見ると、パンジャーブ州は846、ハリヤーナー州は834と、異常なまでの女児の少なさが浮き彫りとなる。この男女比の問題をもっともセンセーショナルに描いた映画「Matrubhoomi」(2003年)は一見に値する。

 インドで2015年2月20日に公開されたパンジャービー語映画「Qissa」は、男児を尊ぶインド社会の風潮に切り込んだ重厚な作品である。とは言っても女児堕胎の話ではない。3人の女児を既に持ち、「次こそは男児」と期待しながら、4人目の子供も女児で失望した父親が、4人目の子供を男の子として育てるという物語である。監督はジェネバ在住のインド人アヌープ・スィン。過去に作品もあるが、この「Qissa」で国際的に名を知られることになった映画監督である。

Qissa

(さらに…)

Kill/Dil

エンティン・タランティーノ監督の「キル・ビル」(2003年)という映画があったが、それによく似たタイトルのヒンディー語映画が2014年11月14日に公開された。「Kill/Dil」である。監督のシャード・アリーは、時々映画も撮る芸術家ムザッファル・アリーの息子で、過去に「Saathiya」(2002年)や「Bunty Aur Babli」(2005年)などのヒット作を監督している。ライトなノリのラブコメを得意としているといえる。音楽監督はシャンカル・エヘサーン・ロイ、作詞はグルザール。制作はヤシュラージ・フィルムスである。

Kill/Dil

 主演は若手人気男優ランヴィール・カプールとパーキスターン人俳優兼歌手アリー・ザファル。ヒロインはパリニーティ・チョープラー。他に、往年のコメディアン俳優ゴーヴィンダーが重要な脇役で登場する。

(さらに…)

Pyaar Ka Punchnama 2

性が女性に振り回されるという展開のロマンス映画は、ヒンディー語映画界において、最近全く稀ではなくなった。むしろ、そういう映画の方が多いくらいだ。そういう傾向が強くなり出した最初期の映画としては「Jab We Met」(2007年)が思い付くし、シリーズ化している映画に限っても、「Manu Weds Tanu」シリーズや「Ishqiyaa」シリーズが思い浮かぶ。極めつけは、逆転夫婦を描いた「Ki & Ka」(2016年)だ。インドにおいても、時代は「強い女性と弱い男性」に移行しつつある。

 男性が女性に振り回されるパターンの映画のひとつに、2011年に公開された映画「Pyaar Ka Punchnama」があった。仲良し3人組の若い男性たちが、ほぼ同時期にそれぞれ女性と付き合うようになるが、三者三様の振り回され方をし、最後にはほぼ同時期に別れるという展開の映画だ。「Pyaar Ka Punchnama」とは「恋愛の検視報告書」。無名の新人監督とキャストによる低予算映画だったが、口コミで話題になり、興行的にもなかなか健闘した。

 その続編が2015年10月16日に公開された。題名はストレートに「Pyaar Ka Punchnama 2」。監督は前作と変わらずラヴ・ランジャン。プロデューサーのアビシェーク・パータクも変わっていない。作曲はシャリーブ・トーシーとヒテーシュ・ソーニク、作詞はクマール、アクラム・サーブリー、ダーニシュ・サーブリー、ヒテーシュ・ソーニク、ラヴ・ランジャン。

Pyaar Ka Punchnama 2

(さらに…)

Detective Byomkesh Bakshy!

21世紀、ヒンディー語映画はハリウッド映画の得意ジャンルを模倣し、ホラー、SF、スーパーヒーロー、アドベンチャーなど、様々なジャンルの映画をインド映画の味付けで作るようになった。その内のいくつかの作品は成功し、ジャンルとしても確立した。だが、思い返してみれば、シャーロック・ホームズやポワロのような探偵モノのシリーズはヒンディー語映画に欠けていた。唯一、「Bobby Jasoos」(2014年)が探偵モノと言える映画だが、シリーズ化はされていない。

 そこで、「Oye Lucky! Lucky Oye!」(2008年)や「Love, Sex aur Dhokha」(2010年)などで有名なディバーカル・バナルジー監督は、ヒンディー語の探偵映画を新たに築き上げようと試みた。それが、2015年4月3日公開の「Detective Byomkesh Bakshy!」である。

Detective Byomkesh Bakshy!

(さらに…)

Shahid

21世紀は9/11事件で幕を開けた。戦争が国家間で争われることが減った代わりに、国家はテロと戦わざるをえなくなった。テロに対抗するため、各国は法律や規則を強化したが、その一方で、一般市民は窮屈な生活を余儀なくされ、不便を被るようになった。インドでも、テロが起こるたびに、面倒な手荷物検査が増えたり、飛行機の機内に液体を持ち込めなくなったりと、段々と圧迫が増して来た。結局、テロで一番迷惑を被るのは一般市民であった。

 面倒が増えたり、迷惑を被ったりするだけならまだしも、テロリストと勘違いされて、大した証拠もないのに逮捕され、なかなか進まない裁判の判決を刑務所で何年も待ち続けるような目に遭ったら、悲惨だ。いわゆる冤罪である。だが、あまりにテロの恐怖に支配された社会では、「テロリストかもしれない」というだけで、多数の犠牲者を出す恐れのあるテロを予防するという名目の下に、拘留が正当化されてしまうところがある。インドにおいて元々マイノリティーとして肩身の狭い生活を送っていたイスラーム教徒は、度重なるテロの影響で、そのような不当な扱いを受けるようになった。

 2013年10月18日公開の「Shahid」は、テロ事件の容疑者として誤認逮捕された貧しいイスラーム教徒の弁護をし続けた実在の弁護士シャーヒド・アーズミーの半生を描いた作品である。1993年のボンベイ暴動から2006年のムンバイー同時多発テロまで、実際にムンバイーで起こった事件を背景にして、ストーリーが展開する。監督はハンサル・メヘター。「Citylights」(2014年)や「Aligarh」(2016年)など、最近は硬派な映画を撮っている監督だ。音楽はカラン・クルカルニー。キャストは、ラージクマール・ラーオ、ムハンマド・ズィーシャーン・アーユーブ、ティグマーンシュ・ドゥーリヤー、ケー・ケー・メーナン、プラバル・パンジャービー、プラブリーン・サンドゥー、バルジンダル・カウルなど。

Shahid

(さらに…)

Dirty Politics

2000年に「Bawandar」という映画があった。1992年のバンワリー・デーヴィー事件に基づいた、インドの女性問題などを扱った社会派映画であった。2012年のデリー集団強姦事件は、女性問題をはじめとしたインドの社会問題の分水嶺となったが、その20年前に起こったバンワリー・デーヴィー事件は、それと同じくらいの重みのある事件であったようだ。

 バンワリー・デーヴィーは、ラージャスターン州政府女性発展事業の草の根ワーカー「サーティン」として活動していた女性である。カーストは不可触民のひとつであるクマール(陶工)。グッジャル(農耕カースト)が支配的な村に住んでいた。バンワリー・デーヴィーは、1992年に幼児婚反対を訴えたことで村八分に遭い、さらに同じ村のグッジャルの男たち5人から集団強姦された。バンワリー・デーヴィーは警察に届出を出したが、カーストが低いことや貧しいことなどから、たらい回しに遭う。ただ、この事件は地元紙を皮切りに全国のメディアで取り上げられ、当時としてはインドの女性問題の象徴となった。しかしながら、裁判では証拠不十分で容疑者には無罪が言い渡された。

 バンワリー・デーヴィー事件の流れを知りたいのなら「Bawandar」以上にいい映画はない。事件の経緯を忠実になぞって映画化しており、バンワリー・デーヴィーがどのような不当な扱いを受けたのかがよく分かる。ナンディター・ダース、ディープティー・ナーヴァル、ラグヴィール・ヤーダヴ、ヤシュパール・シャルマー、そしてグルシャン・グローヴァーなど、当時既に確立されていた名優、及び、その後大いに活躍することになった演技派俳優などが出演しており、彼らの演技も見物だ。

 さて、2015年3月6日公開に「Dirty Politics」という映画が公開された。ヴィディヤー・バーラン主演「The Dirty Picture」(2011年)と似た題名だが、何の関係もない。その名の通り、政治劇であるが、この「Dirty Picture」もどうやらバンワリー・デーヴィー事件を着想源にしているようだ。ただ、ストーリーはかなり異なっており、「Bawandar」とはかけ離れた内容となっている。

Dirty Politics

(さらに…)

Gabbar Is Back

善懲悪はインドのアクション映画の基本である。巨悪に敢然と立ち向かう無敵のヒーロー像は過去に何度も繰り返し増産されて来た。しかしながら、この「勧善懲悪」が、決まり切ったストーリーの典型として、インド映画の弱点に数えられることも多かった。この一点を捉えて批判するのは簡単だが、大切なのは、勧善懲悪型ストーリーの中にどんなダイナミズムが生み出されているかを見出し、どんなメッセージを発信しているかを読み取ることだ。

 近年の顕著な変化として、「善」と「悪」の描写が、「アーム・アードミー(一般庶民)」と「コラプション(汚職)」に置き換わっている点が挙げられる。別の星から降り立ったような無敵のスーパーヒーローが、世界征服を狙うような非現実的な悪党と戦うのではなく、我々の内の誰かが使命感を持って、これまた我々の周囲に存在する日常生活での悪に立ち向かうのである。これは間違いなく、2011年のアンナー・ハザーレーによる汚職撲滅運動と、その後のアーム・アードミー・パーティー(庶民党;AAP)の結成、そして2013年、続いて2015年のデリー州議会選挙での勝利など、一連の出来事の影響である。

 2015年5月1日公開の「Gabbar Is Back」も、そんなポストAAP系勧善懲悪映画の一本である。ただし、この映画には原作がある。「Ghajini」(2008年)で有名な、タミル語映画界を拠点とする監督ARムルガダースが2002年に作った「Ramanaa」である。wikipediaなどでその筋を読むと、「Gabbar Is Back」と大きく変わらない。対汚職という観点は原作から存在した。よって、安易に「Gabbar Is Back」をアンナー・ハザーレーやAAPと結びつけて考えるのは適切ではないかもしれない。ただ、この映画が2015年のAAP新デリー政権の熱狂の中で公開されたこと、2011年以降のインドの雰囲気をよく再現していることなどを鑑みると、無関係と切って捨てることも難しいだろう。

Gabbar Is Back

(さらに…)

Airlift

1990年、イラクがクウェートに侵攻し、湾岸戦争に発展した。今から考えると、この事件は21世紀の国際社会及び日本に大きな影響を与えた。冷戦終結、パレスチナ問題の顕在化、アル・カーイダの台頭、原油価格の高騰、日本のバブル崩壊、自衛隊のPKO参加などなどである。

 クウェートをはじめとした中東各地に多数の出稼ぎ労働者を送っていたインドにとっても、イラクのクウェート侵攻と湾岸戦争は歴史の転換点となる一大事件であった。原油輸入国であるインドにとって原油価格の高騰は元から経済への打撃だったことに加え、中東地域で働く出稼ぎ労働者からの送金が途絶え、外貨準備高が急激に悪化した。インドの財政はデフォルト寸前まで追い込まれ、とうとう1991年7月24日、経済政策を大転換する。ナラスィンハ・ラーオ首相に抜擢された経済学者マンモーハン・スィン財相が、従来の社会主義的な計画経済から脱却し、市場原理と競争重視の資本主義型経済への移行を決定したのである。ピンチはチャンス、と言うが、湾岸戦争は正に21世紀のインド高度経済成長の引き金となった重大な出来事であった。

 イラクのクウェート侵攻時、クウェートには17万人のインド人が住んでいた。クウェートは外界から遮断され、彼らは取り残されてしまっていた。クウェート上空も複雑な状況にあり、インド空軍も動けなかった。このとき、クウェート在住のとあるインド人たちが人並み外れた尽力をし、イラク政府、インド政府、そして国営航空会社エア・インディアを動かした。結果、1990年8月13日から10月11日まで、エア・インディアが488回も飛行機を飛ばし、11万人以上の人間を空輸した。歴史上最大の「エアリフト」としてギネスブックにも登録されており、現在まで航空史に刻まれている。この知られざる偉業を映画化したのが、2016年1月22日公開の「Airlift」である。最近ヒンディー語映画で主流となっている、実話にもとづくドラマ映画だ。

Airlift

(さらに…)

Phobia

ラーは、21世紀のヒンディー語映画がコンスタントに築き上げて来たジャンルである。マルチプレックスが普及し、ハリウッド映画の洗礼を受けた若い観客が映画館の主なパトロンとなったことで、インドの映画メーカーたちは、ハリウッド映画が得意とするジャンルの映画に挑戦するようになった。その中で、ホラーは意外にインド人観客と相性が良いことが発見され、毎年のように何本ものホラー映画が作られ続けたことで、インド映画の中で十分に「ジャンル」として確立した。

 ただ、初期のヒンディー語ホラー映画は、突然入る効果音の大きさで観客を驚かすような、幼稚なものが多く、世界最高峰と言える日本のホラー映画を見慣れた観客には物足りない部分があった。また、過去に何度も主張していることだが、インド人観客は一般にホラー映画をコメディーの一種として鑑賞する。インドの映画館でホラー映画を観るとすぐに分かるが、ホラー・シーンで笑い声が起きるのである。その点も、ホラー映画の正常な発展を阻害していた。

 しかし、2016年5月27日公開の「Phobia」を観て、遂にヒンディー語のホラー映画もここまで来たか、と唸らされた。ホラー映画には2つに大別される。ひとつは幽霊などの超常現象が存在する前提で作られた映画、もうひとつはその力を借りずに観客を恐怖させる映画。もし、敢えてこれらの中で優劣を付けるとしたら、後者の方に軍配を挙げたい。幽霊を登場させずに作られたホラー映画ほど、後からジワジワと怖さが来るからだ。

 以下、ネタバレがある。「Phobia」は前知識なしで観た方が絶対に面白い。よって、もし「Phobia」を観る予定があるのなら、読まない方が吉である。

Phobia

(さらに…)
› 続きを読む