Baadshah (Telugu)

京に滞在している間、ちょうどテルグ語映画「Baadshah」(2013年)が「バードシャー テルグの皇帝」の邦題と共に封切られた。今年の夏に劇場一般公開のテルグ語映画2本の内の1本で、もう1本の「あなたがいてこそ」(原題: Maryada Ramanna)は鑑賞済みである。「Baadshah」をシネマート新宿でファーストデー・ファーストショー鑑賞した。

 「Baadshah」の監督はシュリーヌ・ヴァイトラ。フィルモグラフィーを見てみると、サルマーン・カーン主演のヒンディー語映画「Ready」(2011年)の元ネタとなった2008年の同名テルグ語映画を監督している。音楽はSタマン。主演はNTRジュニアとカージャル・アガルワール。NTRジュニアはテルグ語映画界3大スターの1人で、伝説的名優NTRの孫に当たる人物だ。カージャルはおそらく北インド人の家系で、アジャイ・デーヴガン主演のヒンディー語映画「Singham」(2011年)でヒロインを務めているが、基本的にはテルグ語映画界で活躍している。

Baadshah

 

 今までテルグ語映画はほとんど観たことがなかったのだが、先日鑑賞した「Maryada Ramanna」がなかなか高レベルであったため、この「Baadshah」への期待は高くなっていた。だが、「Baadshah」はサービス満点てんこ盛りの娯楽映画だったが、稚拙かつ単純な部分が目立ち、その期待には応えられなかった。派手なアクションシーンやNTRジュニアの超絶ダンスなど、優れた部品はあったものの、全体的な完成度は低いと言わざるを得ない。

 「Baadshah」は、マフィアの父を持つ警察官ラーマ・ラーオ、別名バードシャー(NTRジュニア)が、アジア一帯のアンダーワールドを支配するサードゥ・バーイーを倒すまでを描いたアクション映画である。それと平行して、サードゥ・バーイーの息の掛かった警察官アーディと婚約していたジャーナキー(カージャル・アガルワール)にバードシャーは接近し、アーディとの結婚を阻止するという任務も遂行する。ラーマ・ラーオとジャーナキーの部分がロマンスとコメディーの要素を請け負っていた。その他、ラーマ・ラーオの家族を巡るドラマで涙を誘う構造となっていたり、NTRネタを盛り込んだりしていた。日本で劇場公開中のヒンディー語映画「Dabangg」(2010年)のパロディーもあった。

 映画の質についてはこれ以上何も言わないが、個人的には興味を引かれる部分もあった。

 まず、サードゥ・バーイーのキャラクターについて。インドに詳しい人ならすぐに分かるが、そのモデルはかつてボンベイ/ムンバイーのアンダーワールドを牛耳っていたマフィアのドン、ダーウード・イブラーヒームである。1993年のムンバイー同時爆破テロなどの首謀者とされていたので、この関連性について疑念の余地はない。ダーウードはヒンディー語映画で頻繁に題材にされている実在の人物であり、最近では「D-Day」(2013年)という映画が印象深い。ダーウードはどうしてもムンバイーとのつながりが深いのだが、ハイダラーバードを拠点とするテルグ語映画にもダーウードの影響が見られることは面白かった。ただ、ハイダラーバードでは2007年と2013年に爆破テロがあり、ダーウードの関与が疑われている。劇中でも当然のことながらこれらの事件に言及されていた。

 ちなみに、サードゥ・バーイーを演じていたのはケリー・ドルジ。ブータン人俳優という変わり種で、少しだけ東洋系の顔をしている。ヒンディー語映画にもいくつか出演している。インド国民軍(INA)のスバーシュ・チャンドラ・ボースの伝記映画「Netaji Subhash Chandra Bose: The Forgotten Hero」(2004年)で彼が東条英機を演じていたのが印象深い。最近はテルグ語映画に活躍の場を移しているようである。

 社会活動家アンナー・ハザーレーの汚職撲滅運動とそれに関連する事象が映画に与えた影響についても個人的に追っているのだが、この映画にも部分的にその影響が見られた。それはヒロインのジャーナキーのキャラである。ジャーナキーは「ボール理論」なる独自の道徳理論を唱えており、善行を行うことが趣味である。彼女の台詞の中にもアンナー・ハザーレーの名前が引用されており、ジャーナキーの設定上、「現代のガーンディー」の影響がある程度あると考えてもいいだろう。

 もうひとつ、非常に気になったのは、テルグ語映画にも関わらず、ヒンディー語の台詞や歌詞が意外に多かったことである。映画が始まって最初に聞こえて来るナレーションの第一声も「我がインドは偉大なり」という意味のヒンディー語であった。タミル語映画なんかだと、ヒンディー語はもっと侮蔑的・嘲笑的な使われ方をすることが多いのだが、「Baadshah」で出て来たヒンディー語は、インドの共通語としての地位をちゃんと認められていたように感じた。

 ひとつの原因として考えられるのは、テランガーナ州独立前の旧アーンドラ・プラデーシュ州の言語状況である。州人口のおよそ85%はテルグ語を母語とするが、10%はヒンディー語/ウルドゥー語母語話者であり、特に州都ハイダラーバードにおけるヒンディー語/ウルドゥー語母語話者の人口比は4割以上だ。よって、テルグ語映画の中にヒンディー語/ウルドゥー語の台詞を混ぜるのは、彼らへの配慮という可能性が考えられる。

 ただ、それは表層的な見方で、もっと文化の深層まで掘り下げる必要もあるのではないかと思う。テルグ語映画の中心地ハイダラーバードは、実はヒンディー語/ウルドゥー語文学の揺籃の地となった場所のひとつであった。ヒンディー語/ウルドゥー語が生まれたのはデリー周辺部であるが、ペルシア語が共通語・文学語としての圧倒的な地位を確立していた北インドの宮廷では、長い間ヒンディー語/ウルドゥー語の文学が発展しなかった。一方、デカン地方では、北インドの政権から独立した王朝が繁栄していた時期があり、ペルシア語の軛からも比較的解放されていた。デカン地方の独立王朝は、元々北インドで生まれ育った人々とその末裔が支配層として君臨する政権だったため、彼らは母語のヒンディー語/ウルドゥー語で文学を書いた。その言語と文学は、地元の語彙を取り込み、デリー周辺の言語から独自の発展を遂げて行った。その言語はやがて「デカンの言語」を意味するダキニー語と呼ばれるようになった。よって、デカン地方はヒンディー語/ウルドゥー語の第二の故郷となっている。

 「Baadshah」やその挿入歌の歌詞の言語状況からは、そのダキニー文学の流れを感じ取ることができるように感じた。また、テルグ語の台詞の中にも、ヒンディー語/ウルドゥー語で聞き覚えのある単語が少なくなく、分からないなりに言葉を拾うことができた。少なくとも、テルグ語映画からは、ヒンディー語に対する対抗心や敵愾心みたいなものは全く感じられないことに気付けたことが収穫だった。これはタミル語映画との大きな違いだ。

 残念ながら「Baadshah」の映画自体は好意的に評価できなかったのだが、いくつか興味深い点が見つかり、無駄にはならなかった。それでも、もし現在公開中のテルグ語映画2本の内で迷っている人がいたら、僕は迷わず「あなたがいてこそ」の方を勧めるだろう。

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