Bahubali: The Beginning

ンドの映画業界は言語ごとに分かれており、それぞれ独立して存在している。映画界同士で人材の交流は行われるが、インドの観客は自分の母語の映画だけを観る傾向にあり、各映画界ごとに観客は固定されている。ひとつの作品がそのまま言語の壁を越えるのは難しい。そのためのひとつの手段として、同じストーリーの映画を言語ごとに撮るということがある。テルグ語映画~タミル語映画間でよく行われている手法で、同じシーンを、言語や小道具などを変えて、わざわざ2回撮っている。他に、特定の言語で撮った映画を後から吹き替えるということもある。ただ、これはそれほど積極的に採用されている手法ではない。英語字幕を付けて他地域で上映するという試みも最近行われているようだが、どれほど成功しているか不明である。むしろ、特定の地域でヒットした映画を別言語でリメイクする方が好まれるようである。これは、同じインド人と言えども、地域ごとに趣向が異なり、なかなか全インドで通用する映画を作るのが難しいことが原因となっている。全国津々浦々で大ヒット、という映画は年に1本出るか出ないか、といったところである。

 ところで、2015年には全インドで大ヒットを飛ばした化け物映画があった。SSラージャモウリー監督のエピック映画「Bahubali: The Beginning」である。これは、少なくとも3部構成の長大な歴史フィクション・シリーズの第1作にあたり、テルグ語とタミル語で同時撮影が行われた。その他、ヒンディー語やマラヤーラム語の吹き替え版が制作され、2015年7月10日に公開された。各地域で異例の大ヒットとなり、コレクション(国内興行収入)は500億ルピーを越えたと言う。これは額面だけ見れば、ヒンディー語映画「PK」(2014年)を越え、インド最大のヒット作となる。

Bahubali

 

 「Bahubali: The Begininng」の監督、SSラージャモウリーは、娯楽映画の名手として今や全国的にその名を知られている。彼の過去の作品である「Maryada Ramanna」(2010年)や「Makkhi」(2012年)は、それぞれ「あなたがいてこそ」および「マッキー」の邦題と共に日本でも公開されたので、既に日本にも紹介が済んでいる。「Bahubali: The Beginning」のメインキャストは、プラバース(ヒンディー語映画「Action Jackson」(2014年)に出演)、ラーナー・ダッグバーティ(ヒンディー語映画「Baby」(2015年)などに出演)、タマンナー(ヒンディー語映画「Entertainment」(2014年)などに出演)。他に、アヌシャー・シェッティー、ラマヤー・クリシュナン、サティヤラージ、ナーサル、ローヒニーなどが出演。「Makkhi」の主演スディープがカメオ出演している他、ラージャモウリー監督自身もチョイ役で顔を出している。

 鑑賞したのはヒンディー語吹替版である。作曲はMMカリーム。作詞者は各言語ごとに異なり、ヒンディー語吹替版の楽曲の作詞はマノージ・ムンタシールが担当している。

あらすじ

 架空の王国マヒシュマティー。シヴドゥー(プラバース)は、マヒシュマティーの外れ、巨大な滝の下に住む部族の村の夫婦に育てられたが、実際はマヒシュマティーの王族の血を引いていた。育ての母親サンガー(ローヒニー)はそれを秘密にしてシヴドゥーを育てていたが、シヴドゥーは子供の頃から滝の上の世界に憧れていた。何度も崖をよじ登ろうとするが失敗していた。

 立派な青年に育ったシヴドゥーはあるとき遂に崖の上まで辿り着く。そこでアヴァンティカー(タマンナー)という女戦士と出会い、恋に落ちる。アヴァンティカーが属する集団は、マヒシュマティー王国の現支配者バッラールデーヴ(ラーナー・ダッグバーティ)に反抗し、ゲリラ戦を繰り広げていた。彼らの当面の目標は、囚われの前王妃デーヴセーナー(アヌシュカー・シェッティー)の解放であった。アヴァンティカーと恋仲になったシヴドゥーは、単身マヒシュマティー王国に乗り込む。

 折りしも、マヒシュマティー王国では、バッラールデーヴの巨大な立像を立てる式典が開催されていた。シヴドゥーはその式典中に潜り込む。シヴドゥーの顔を見た住民は、彼を「バーフバリー」と呼んだ。その声はバッラールデーヴの耳にも届き、彼は大いにうろたえる。シヴドゥーは囚われていたデーヴセーナーを救い出し、脱出する。将軍カッタパー(サティヤラージ)が後を追う。シヴドゥーは逃げ切れず、デーヴセーナーと共に捕まってしまう。

 バッラールデーヴの息子バドラが意識を失ったシヴドゥーを処刑しようとしていた。だが、シヴドゥーは意識を取り戻し、反撃する。シヴドゥーはバドラの首を切り落とす。カッタパーがシヴドゥーを攻撃するが、シヴドゥーの顔を見てひざまずく。カッタパーもシヴドゥーを「バーフバリー」と呼ぶ。ちょうどそこへ、シヴドゥーを探して滝の下から秘密のトンネルを通って滝の上にやって来たサンガーたちや、アヴァンティカーたちも到着していた。カッタパーは皆の前でシヴドゥーの出生の秘密を語り出す。

 かつてマヒシュマティー王国はヴィクラムデーヴ王によって治められていたが、あるとき王が急死してしまう。弟のヴィッジャールデーヴ(ナーサル)は身体障害者だったため、王位にふさわしくないとされた。また、ヴィクラムデーヴ王の妻は身重だった。そこで、ヴィッジャールデーヴの妻のシヴガーミー(ラマヤー・クリシュナン)が摂政となって政治を行った。シヴガーミーにはバッラールデーヴという息子がいた。一方、ヴィクラムデーヴ王の王妃はアムレーンドラ・バーフバリー(プラバース)を生んで死んでしまう。シヴガーニーは2人を実の息子として育てた。そして、2人の中でより優れた戦士となった者が王となると宣言する。

 成長したバーフバリーとバッラールデーヴは等しく文武に秀で、どちらが王になってもおかしくなった。ちょうどそのとき、マヒシュマティー王国は蛮族カールケーヤからの攻撃を受ける。シヴガーミーは、敵の頭領を殺した者が王になると宣言する。激しい戦闘の中でマヒシュマティー軍はカールケーヤ軍の攻撃を押し返す。そして、バーフバリーは頭領に致命傷を負わせるものの、留めをさしたのはバッラールデーヴであった。だが、シヴガーミーは、バーフバリーがマヒシュマティーの住民を救いながら戦っていたのを評価した。彼女はバッラールデーヴを将軍に任じる一方、バーフバリーを王と認める。

 カッタパーの明かすところでは、シヴドゥーこそが、そのアムレーンドラ・バーフバリーの息子マヘーンドラ・バーフバリーであった。しかし、バーフバリーはもうこの世にいなかった。バーフバリーを殺したのは、他でもない、カッタパー自身であった。

解説

 インドは豊富な神話・説話と歴史・伝承を持つ国である。インド人が現代に至るまで創造して来た物語の源泉も、多くはそれらの中にある。極端なことを言ってしまえば、「世界中の全ての物語はインドが発祥」と豪語してもいいくらいだ。たとえば、現在第7作目が公開中の「スター・ウォーズ」にしても、「ラーマーヤナ」などのインド神話を大いに研究し、神話に乏しい米国に「現代の神話」を確立する目的で作られたとされる。それ程、あらゆる型の物語をインドは古代から中世にかけてストックして来た。当然、インド映画の源泉や発想源も、その黎明期から現代に至るまで、神話や歴史などであった。

 しかしながら、元々そのような豊富な物語的資源を持つ国であるが故に、それが足枷になっている部分もあった。古くから堆積して来た神話や歴史は宗教や信仰に近い存在となっており、安易な改編や空想の余地を許さない雰囲気がある。元々、神話は地域ごとに多様な姿形があり、歴史についても多角的な視点で語られるべきものなのだが、映画やテレビドラマにすることで、その「定番」を作ることにもつながる。これらの足枷は、作家に冒険を許さず、創造性を制限して来た。

 もしかしたら「Bahubali」は、その制約を初めて超越することに成功した作品かもしれない。「Bahubali」の世界観は、インドでありながら、過去のどの時代とも特定されず、どの場所とも言えない。言わば、パラレルワールドとなっている。ただ、舞台となるマヒシュマティー王国がインド亜大陸に位置することは確かである。なぜならカーブル、バグダード、中国など、インド亜大陸周辺の国家や都市の名前が出て来るからである。また、王国で主に信仰されている宗教がヒンドゥー教であることも確かだ。シヴァ信仰やカーリー女神信仰などが出て来ることからそれが分かる。「マヒシュマティー」という地名は、現在のマディヤ・プラデーシュ州辺りにあった古代都市と一致するが、その地形などから、同一視することは難しい。つまり、インド亜大陸のどこにある町から分からないのである。ただ、劇中に出て来る河が「ガンガー(ガンジス河)」と呼ばれていたので、少なくともヒンディー語吹替版では、ガンジス河流域ということになっているかもしれない。どちらにしろ、インド亜大陸にありながら、インドのどこが舞台なのか、全く曖昧なまま話が進むのである。それでいて絶対にインドだと言える要素が随所に散りばめられている。

 このような世界観を設定することで、作家は完全に自由な創造の翼を得たと言っていい。「マハーバーラタ」でも「ラーマーヤナ」でもない、新たなインド神話の創造が始まった。それが「Bahubali」なのである。「神話の創造」という観点から見て、この作品をインド版「スター・ウォーズ」と呼ぶのもいいが、物語の歴史から言ったら、その呼称は「物語の父」インドに対して失礼極まりない。「Bahubali」の挑戦は、むしろ「神話からの脱却」であり、ハリウッドの数周回も先を行っている先進的な試みである。

 ただ、「Bahubali: The Beginning」で語られるストーリーラインは、依然として「マハーバーラタ」などから多大な影響を受けていると言っていい。例えば、身体障害者のヴィジャールデーヴは「マハーバーラタ」に登場する盲目の王ドリタラーシュトラとかぶるし、王家のゴタゴタを見守って来た老将軍カッタパーは「マハーバーラタ」のビーシュマにそっくりだ。王家の内乱を逃げ延びた王子が庶民の家で育てられ、後に自分の出自に気付くという基本的な筋書きは、これまで国内外問わず、幾度となく目にし耳にして来たもので、全く目新しさはない。ストーリーの展開の仕方やダンスシーンへの移行も、南インド映画らしい強引さがあり、粗野な印象を受けざるを得ない。

 それでも、真摯に壮大な物語をスクリーン上に築き上げており、見所に欠かない。特に終盤の戦闘シーンは迫力満点で、先日鑑賞した「Bajirao Mastani」(2015年)の戦闘シーンとは雲泥の差だ。各キャラクターも非常に立っており、続編で彼らがまたどのような行動をするのか、それぞれの関係がどう動くのか、今から楽しみだ。まだ明かされていない謎も多く、続編でそれが明らかになるのが待ちきれない。エピック映画にはこのフィーリングが大切だ。

 ヒンディー語吹替版での鑑賞だったので、歌詞や台詞回しなどについては評価を避けた方がいいだろう。一言だけ言うならば、サンスクリット語混じりの難解な台詞が多く、古代インドの王朝劇といった印象を受けた。もう少し柔らかい台詞にしても良かったのではないかと感じた。

 「Bahubali: The Beginning」は、インド映画が初めてインド神話から脱却した神話の創造に着手した記念碑的作品だ。今のところ第三部まで制作がアナウンスされている。この第一部だけでも12億ルピーを費やして作られた。その映像は豪快かつ壮大。スクリーンで観るべき映画のひとつだが、残念ながらDVDでの鑑賞となった。続編が楽しみである。

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