Dedh Ishqiya

画には大きく分けてストーリー優位型とキャラクター優位型の2種類があると思うが、「Ishqiya」(2010年)は後者のタイプの映画だった。個性的なキャラが集い、勝手にストーリーを紡ぎ出したような作品で、登場人物同士のやり取りが最高に楽しかった。特にヴィディヤー・バーランは「女手一つで」映画を支配するほどのパワフルな女性を演じて賞賛を浴び、後にヒロイン中心映画のパイオニアとなった。

 アビシェーク・チョウベー監督は「Ishqiya」の続編は考えていなかったようである。エンディングは、ナスィールッディーン・シャー演じるカールー・ジャーン、アルシャド・ワールスィー演じるバッバン、そしてヴィディヤー・バーラン演じるクリシュナーが画面奥に向かって歩く中、彼らのボスであるムシュターク・バーイーがライフルで彼らに照準を定める、という意味深なものだった。ただ、プロデューサーで師匠のヴィシャール・バールドワージからの要望があり、いい脚本も手に入ったことで、続編の制作が動き出したと言う。そうして完成したのが、2014年1月10日公開の「Dedh Ishqiya」であった。

Dedh Ishqiya

 

 ヒンディー語の続編映画には、前作とストーリー上のつながりがないものが多いのだが、「Dedh Ishqiya」は一応前作との連続性を持っている。ただ、クリシュナーを演じたヴィディヤー・バーランは消えており、代わりに2人のヒロインが入った。それを演じるのがマードゥリー・ディークシトとフマー・クレーシーである。ナスィールッディーン・シャーとアルシャド・ワールスィーは留任し、ムシュターク・バーイーを演じたサルマーン・シャーヒドも引き続き出演している。他にヴィジャイ・ラーズやマノージ・パーワーなどが脇役でキャスティングされている。音楽はヴィシャール・バールドワージ、作詞はグルザール。

 ちなみに、題名の「Dedh(डेढ़)」とは1.5という意味である。「Ishqiya 2」ではなく「Ishqiya 1.5」という訳だ。この奇妙な題名については様々な憶測がなされているが、チョウベー監督自身は「真剣に考える必要はない」と言っているので、実際には深い意味はなさそうだ。僕は映画を観て感じた印象では、「Ishqiya」では女に翻弄される男の数が2人だったのに対し、今回は3人になったので、前作比1.5倍という意味と取るのが一番しっくり来そうだ。「Ishqiya」という言葉自体も様々な意味に取れるのだが、その場合は「恋に惑わされた男」という意味になろう。

あらすじ

 イフテカール・フサイン、愛称カールー・ジャーン(ナスィールッディーン・シャー)とラッザーク・フサイン、愛称バッバン(アルシャド・ワールスィー)は、相変わらず泥棒業で生計を立てており、今回も宝飾店から盗品のネックレスを盗み出そうとしていた。そのネックレスは、ハイダラーバード(スィンド)のかつての王族の所有品であった。何とかネックレスを持ち出すことには成功したものの、すぐにばれ、警察に追われることになる。逃げる中で2人は別々になり、ネックレスはカールー・ジャーンの手に渡った。カールー・ジャーンは待ち合わせ場所に現れず、バッバンはボスのムシュターク・バーイー(サルマーン・シャーヒド)に捕まって殺されそうになるが、何とか逃げ出す。

 その後しばらくの間カールー・ジャーンは行方不明になっていた。だが、ある日バッバンはたまたまテレビにカールー・ジャーンが映っているのを見つけ居所を突き止める。彼はマージダーバードにいた。マージダーバードの領主ベーガム・パーラー(マードゥリー・ディークシト)は未亡人で、亡き夫の遺言に従い、詩人と再婚することを望んでいた。彼女には子供がいなかった。パーラーは伴侶を見つけるため、国中から詩人を集めてムシャーイラー(詩会)を開催していた。詩才があったカールー・ジャーンは、チャーンドプルのナワーブ(領主)を装ってムシャーイラーに参加していた。また、カールー・ジャーンは若い頃に、元々カッタクの踊り手だったパーラーの踊りを見て一目惚れしており、因縁があった。

 パーラーは、侍女のムニヤー(フマー・クレーシー)に支えられ、客をもてなしていた。ムシャーイラーには多くの詩人が集まったが、著名な詩人ヌール・ムハンマド・イタールヴィー(マノージ・パーワー)の姿が見えなかった。実はイタールヴィーは、地元選出の州議会議員ジャーン・ムハンマド(ヴィジャイ・ラーズ)に拉致されていた。ジャーン・ムハンマドはかねてよりパーラーに言い寄っており、この機会に何としてでも彼女と結婚してナワーブになろうとしていた。彼には詩才がなかったため、捕らえたイタールヴィーに代わりに詩作をさせ、勝利を収めようとしていたのであった。

 ところがムシャーイラーではカールー・ジャーンの詩が最も賞賛を受け、ジャーン・ムハンマドは地団太を踏む。カールー・ジャーンにしても、バッバンが会場に来てしまって大慌てするが、バッバンはムニヤーに目を付け、カールー・ジャーンの作戦を支えるようになる。カールー・ジャーンは、パーラーの心を勝ち取るため、盗み出して保管していたハイダラーバードの首飾りを贈る。また、バッバンはムニヤーに言い寄る。だが、パーラーもムニヤーも一筋縄で行く女ではなかった。

 パーラーの亡き夫は金遣いが荒く、銀行から借りた金を賭博につぎ込んでいた。パーラーが当主の座を継いだとき、家には財産などなく、不動産も銀行の抵当に入っていた。パーラーは精神的に脆弱となるが、それを支えたのがムニヤーだった。そして2人の関係はいつしか主人と従者のそれを越えていた。パーラーとムニヤーは一攫千金のために狂言誘拐を画策する。パーラーが金持ちと結婚し、結婚式の直後に誘拐され、「夫」から身代金を奪い、それを持って2人で逃走するという計画だった。そのためにはパーラーを誘拐する人物が必要だった。ムニヤーはバッバンにその役を押し付けようと、彼を誘惑する。また、バッバンはカールー・ジャーンの正体をばらしてしまう。パーラーは当初、カールー・ジャーンを「夫」にするつもりであったが、金がないのを知ると、ジャーン・ムハンマドに照準を定めた。

 パーラーが再婚相手を発表するときが来た。何も知らないカールー・ジャーンはてっきり自分の名前が呼ばれると思ったが、パーラーの口から出たのはジャーン・ムハンマドの名前だった。カールー・ジャーンは落ち込み、結婚式の当日、パーラーの前で拳銃自殺をしようとする。ところがそこへバッバンが乱入し、パーラーを誘拐して行く。カールー・ジャーンは彼を追い掛けるが、パーラーとバッバンに捕まってしまう。

 バッバンはジャーン・ムハンマドに1億ルピーの身代金を要求する。ジャーン・ムハンマドは警察の忠告も聞かずに金を用意し、身代金を渡そうとするが、寸前でパーラーとムニヤーの計画に気付く。カールー・ジャーンとバッバンは1億ルピーを受け取りに現れるが、そこでジャーン・ムハンマドと手下の罠にはまって捕まってしまう。だが、そこへイタールヴィーが警官を引き連れて急襲して来たために銃撃戦となり、混乱の中、パーラーとムニヤーは逃亡する。カールー・ジャーンとバッバンは警察に逮捕され、しばらく留置所に入れられるが、ある日突然保釈される。警察署の外に出た2人を待ち構えていたのはムシュターク・バーイーであった。

解説

 男は女を騙して目的を達成しようとするが、女の方が一枚で、男はいいように翻弄される。いつの間にか男は女を真剣に愛するようになり、ますます女の術中にはまる。そして最後は女に全てを持って行かれる――もし「Ishqiya」が今後もシリーズ化されるなら、そんな展開が繰り返されるのだろうか。前作と今作で共通して語られる、「口の悪い1匹の雌オウムと信心深い2匹の雄オウム」の話が、正に「Ishqiya」シリーズを貫く主題だ。

 「Ishqiya」に続き「Dedh Ishqiya」も、カールー・ジャーンとバッバンの二人組が女に翻弄される物語となっている。前作と異なるのは、女が二人になったことだ。ベーガム・パーラーと侍女ムニヤーである。前作にあった三角関係は、第三の男ジャーン・ムハンマドを導入することでパーラーを中心に構成され維持されているが、カールー・ジャーンとバッバンの恋愛は交錯せず、その点では面白味が減っている。また、女のキャラも、二人いる分、迫力が分散されており、前作のクリシュナーほどの凄みはなかった。その代わり、この二人の女の関係にもただならぬもの――同性愛――が暗示されていた。また、パーラーの亡き夫の性的対象は、女性ではなく少年だったと説明されている。それが、パーラーに子供がない原因であろうし、愛に飢えた彼女が同性愛に目覚めた遠因ともなったのだろう。以上が「Dedh Ishqiya」の登場人物の主な相関関係である。

 主人公はカールー・ジャーンとバッバンであり、二人とも自分が主体となって金であれ女であれ手にしようとするのだが、実際にこの物語に事件をもたらしているのはパーラーとムニヤーであり、カールー・ジャーンとバッバンは彼女たちの操り人形でしかない。また、パーラーとムニヤーの関係は、まだパーラーの夫が生きている頃から始まったと考えられる。そうすると、当然疑問として沸き起こって来るのは、パーラーの夫の死の原因である。少年性愛者の夫を、同性愛者の妻が、恋人と共謀して殺したと考えることも可能であろう。そうでなくても、狂言誘拐はこの二人が考え出したことであり、それにカールー・ジャーンとバッバンは巻き込まれることになった。つまり、男二人の視点から見れば巻き込まれ型映画であるし、もっと広い視点から見れば、一見粗野でマスラオ振りの映画に見えるものの、女性中心の映画である。この伝統が「Ishqiya」シリーズの肝だと言える。

 「Dedh Ishqiya」が醸し出す世界観は、近年のヒンディー語映画ではほとんど忘れ去られていたものだ。ナワーブ、ベーガム、ウルドゥー語のガザル詩、ムシャーイラー・・・そして、かつて北インドの王侯貴族や知識人が磨き上げた高尚な修辞的会話。それでもって「ウルドゥー語映画」としてしまうのには、あまりに言語が多様であるため、語弊があるだろう。よって、ヒンディー語映画でいいと思うが、いわゆるウルドゥー語とこの言語が築き上げた文化をここまで意図的にかつ集中的に注入した映画は近年稀である。世界観として最も近いのはアイシュワリヤー・ラーイ主演の「Umrao Jaan」(2006年)であったが、台詞や歌詞などは1981年のレーカー主演同名映画よりも現代的にアレンジし直されていた。「Taj Mahal: An Eternal Love Story」(2005年)や「Jodhaa Akbar」(2008年)のような映画はあったが、これらは完全に時代劇なので別格だ。現代劇において、ウルドゥー語をここまでフル活用した映画としては、「Dedh Ishqiya」が唯一なのではないかと思う。

 そして、映画公開時から指摘されていることだが、「Dedh Ishqiya」は台詞や歌詞をウルドゥー語で埋めただけでなく、ウルドゥー語文学からも多大な影響を受けている。直接の影響が指摘されているのが、女性作家イスマト・チュグターイーの短編小説「Lihaaf(キルト)」である。印パ分離独立前の1941年に書かれたこの作品は、女性の同性愛を扱っている。英語訳がネットで公開されているので、参照するといいだろう。「Lihaaf」に出て来るベーガム・ジャーンは「Dedh Ishqiya」のベーガム・パーラーと重なる。ベーガム・ジャーンは、夫から愛情が得られず、侍女との同性愛に走ったと書かれているが、おそらくパーラーにも同じことが言えるのだろう。パーラーとムニヤーの影が同性愛的行為を行うことを暗示するシーンが「Dedh Ishqiya」にはあるのだが、そのときカールー・ジャーンは「寒気がする。キルトを持って来い」と言っており、さらに「Lihaaf」との関連を強めている。他に、劇中で詠まれるガザル詩の多くは、ウルドゥー語詩人バシール・バダル作の詩である。例えば、以下のものが有名である。

Sanwaar Nok-e-Palak Aabruon Mein Kham Kar De
Gire Pade Huye Lafzon Ko Mohtaram Kar De

瞼を上げ、眉に下にしまっておくれ
地に落ちた言葉を尊重しておくれ

 さらには、往年の名歌手として知られるベーガム・アクタルの「Hamari Atariya」がリメイクされており、カッタクの巨匠パンディト・ビルジュー・マハーラージが「Devdas」(2012年)に続きマードゥリー・ディークシトの振り付けをしている。彼らもまた、ウルドゥー語とウルドゥー語文学が代表する北インドの宮廷文化と密接な関係を持っている。これらのエッセンスをふんだんに盛り込みながら、現代劇の中に宮廷文化の残り香を復活させた点に、「Dedh Ishqiya」の大きな功績とユニークさがある。しかも、一人で悦に入ったような郷愁ではなく、一貫して非常にドライな視点があった。

 「Dedh Ishqiya」は、ヒンディー語映画を文学の高みに高めるだけの潜在力がある作品だ。そして、これだけ男臭く荒々しい外観の映画ながら、女性が主人公と言ってもいいほど中心的な役割を果たしており、「Gangs of Wasseypur」(2012年)などとも共通したセンスを感じる。2014年の代表作の一本と言えるだろう。

 最後に、「Dedh Ishqiya」の中で何度も引用される、「愛の七段階」をここに追記しておく。

第一段階:Dilkashi 魅惑
第二段階:Uns 親交
第三段階:Mohabbat 恋愛
第四段階:Akeedat 信仰
第五段階:Ibaadat 崇拝
第六段階:Junoon 狂気
第七段階:Maut 死

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