Gori Tere Pyaar Mein

ンディー語映画は世の流れに敏感で、その時々の時事問題を巧みにストーリーに織り込んで来る。よって、ヒンディー語映画をフルに楽しもうと思ったら、インドの一般常識をある程度頭に入れておく必要がある。ヒンディー語映画の文脈において、ここ最近のトピックで最も重要なのは「汚職」である。2011年を通してインド中を騒がせた、アンナー・ハザーレーによる汚職撲滅運動は、政界において最終的にデリー庶民党(AAP)政権の樹立に結実したが、これが映画のインスピレーション源にもなり、「汚職」をテーマに複数の映画が作られた。その最たるものはプラカーシュ・ジャー監督の「Satyagraha」(2013年)であるが、2013年11月22日公開の「Gori Tere Pyaar Mein」も庶民党の台頭と関連する作品だと言える。庶民党への期待が最高潮だった時期に公開されている。

 「Gori Tere Pyaar Mein」の監督はプニート・マロートラー。著名な衣装デザイナー、マニーシュ・マロートラーの甥に当たり、「I Hate Luv Story」(2010年)でデビューしたばかりの監督だ。音楽はヴィシャール・シェーカル、作詞はアンヴィター・ダット、クマール、カウサル・ムニール。主演はイムラーン・カーンとカリーナー・カプール。他にシュラッダー・カプール、アヌパム・ケール、スジャーター・クマール、ニラルガル・ラヴィ、イーシャー・グプターなどが出演している。題名は「色白女よ、君に恋して」という意味である。

Gori Tere Pyaar Mein

あらすじ

 バンガロール在住タミル人ブラーフマンの家系に生まれ、米国留学帰国組のシュリーラーム・ヴェーンカト(イムラーン・カーン)は、親族の葬式よりも女の子とのデートを優先するような無責任な男であった。父親(ニラルガル・ラヴィ)も母親(スジャーター・クマール)も困り果てた末に、シュリーラームを結婚させることにする。お見合い相手として選ばれたのはタミル人ブラーフマン一家の娘ヴァスダー(シュラッダー・カプール)であった。ところが、ヴァスダーにはカマルジートというパンジャーブ人の恋人がおり、シュリーラームに縁談を断るように頼む。それにも関わらずシュリーラームは結婚を承諾してしまう。

 実はシュリーラームには過去に真剣に付き合っていた女性がいた。パンジャーブ人のディヤー・シャルマー(カリーナー・カプール)である。ヴァスダーに問いただされる形で、シュリーラームはディヤーとの恋愛を語り出す。

 ディヤーと初めて出会ったのは、シュリーラームが米国留学から帰国した直後のデリーにおいてだった。その後、バンガロールのNGOで働き出したディヤーと再会し、2人は付き合うようになる。ディヤーは抗議のハンガー・ストライキを主導したり、政治家の不正を糾弾したり、性労働者のドキュメンタリー映画を作ろうとしたり、孤児院の建設を夢見たり、常に正義のために忙しく活動していた。シュリーラームは彼女の活動を心半分で支えていた。だが、ディヤーが両親から結婚を強要され始めたことをきっかけに2人の仲に亀裂が走る。シュリーラームは、裕福な家庭に生まれ育ったディヤーは生活水準を守りながら活動しており、それは偽善だと主張する。それを聞いたディヤーはシュリーラームを見捨てる形でパンジャーブに帰って行く。これが、今までの顛末だった。

 ヴァスダーは、シュリーラームとディヤーの恋愛の話を聞き、まだ2人の関係は終わっていないと感じる。結婚式の準備は進んで行き、タミル人の結婚に特有の「カーシー・ヤートラー」の儀式の段階まで来る。このとき花婿は冗談で「結婚はしない」と言い出すことになっている。ヴァスダーから、まだディヤーとやり直せると言われたシュリーラームは、この儀式に乗じて式場を逃げ出し、デリーへ向かう。ところがディヤーはデリーにいなかった。彼女の親の話では、過去11ヶ月間ほどグジャラート州のジュムリーという村に滞在していると言う。シュリーラームはディヤーを連れ戻しにジュムリー村を目指す。

 ジュムリー村は鉄道もバスもない僻地にあり、しかも橋のない川を渡らなければならなかった。シュリーラームは苦労して村まで辿り着く。そこでディヤーは村人たちと共に暮らし、彼らの生活を助けていた。この村の一番の問題は橋がないことだった。ディヤーが橋ができるまで村を去らないと言い張るため、シュリーラームは橋の建造に奔走することになる。地元コレクター(徴税官)のラテーシュ(アヌパム・ケール)は傲慢な男で、ジュムリー村のために手を差し伸べようとしなかった。そこでシュリーラームは地元政治家キールティバーイー・パテールに請願する。シュリーラームの口八丁がうまく作用し、橋が建造されることになった。ところが工事途中にキールティバーイーが失脚し、ラテーシュの妨害で工事が止まってしまう。そこでシュリーラームはラテーシュにお願いに行く。かねてからラテーシュはジュムリー村の土地を狙っていた。その土地を譲渡することを条件に、ラテーシュは橋の建造を許す。工事は再開される。

 ところが、ラテーシュはジュムリー村に取得した土地に化学工場を建設しようとしていた。それを知ったディヤーは、勝手にラテーシュと取引したシュリーラームを糾弾する。シュリーラームは村から追い出される。しかし、シュリーラームはバンガロールに戻らず、ラテーシュにもう一度お願いに行く。シュリーラームはプライドを捨て、ラテーシュの膝元にひざまずき、必死に懇願する。その態度を見て心を開いたのはラテーシュではなく、ラテーシュの父親だった。ラテーシュと父親の仲はよくなく、父親はラテーシュに屋敷の所有権を決して渡そうとしなかった。だが、シュリーラームの改心を見て父親は彼のために一肌脱ぐことを決め、所有権をラテーシュに渡し、その代わりに橋を造らせるように指示する。おかげで橋の工事が再開され、橋は完成する。シュリーラームはディヤーを連れて村を後にするが、ディヤーは今度は、電気が来ていない村に立ち寄ろうとする。

解説

 まず、ヒンディー語映画ながら南インドの都市バンガロールが舞台となり、しかも主人公がタミル人という設定が面白い。ヒンディー語映画界では現在、南インド映画のリメイクが盛んに行われているが、それと並行して南インド人が主人公、または重要な役で登場するヒンディー語映画がチラホラ出て来ている。「Ra.One」(2011年)や「Chennai Express」(2013年)がその代表例である。「Gori Tere Pyaar Mein」はその最も新しい例だ。また、そのような映画では必ずと言っていいほど、北インド人と南インド人の恋愛や、それに伴うカルチャーギャップが描かれる。このような南インド・シフトは、マーケティングの観点からは、ヒンディー語映画界が南インド市場でのシェアを拡大しようとしていると分析できるが、おそらくそれよりも、地域ごとに分断されがちなインドにおいて、「インド人」としてのアイデンティティーを確立し、全国民の統一性をプロモートするという、愛国主義的な動機の方が強いのではないかと感じる。ただ、「Gori Tere Pyaar Mein」でタミル人男性を演じたイムラーン・カーンは、全くタミル人に見えないし、タミル人女性を演じたシュラッダー・カプールについても然りである。ちょっと無理のあるキャスティングである。

 そういう無理に目をつぶって人物の相関図を見てみると、「Gori Tere Pyaar Mein」では、北インド人と南インド人の結婚と異宗教間での結婚が同時に取り上げられていることが分かる。シュリーラームとヴァスダーの結婚は、お見合い結婚であり、社会的慣習に従って、無難に同じ言語を話す同じカースト同士の結婚となっている。2人ともタミル・ブラーフマンである。また、ディヤーの方はパンジャービー・ブラーフマンであり、両親は同じパンジャーブ人との結婚を望んでいた。その一方で、実際に行われた結婚は、まずはヴァスダーとカマルジートのものである。カマルジートは彼女の恋人で、パンジャーブ人のスィク教徒だ。この結婚は、地域の差と宗教の差を越えている。シュリーラームとディヤーの結婚も示唆されたが、こちらは両方ともヒンドゥー教徒のブラーフマンであり、地域差のみの結婚である。とは言っても、同じヒンドゥー教徒でも地域ごとにかなり文化が異なり、宗教間結婚に比べて障害が少ないという訳でもない。慣習に従わない結婚で終わっているということは、この映画はそういう結婚を後押ししていると捉えても差し支えないだろう。カースト制度や宗教対立の解消のためにはカースト間・宗教間結婚の推進が時間が掛かるようで一番着実な道であるし、地域間の心理的距離を縮めるにも、地域間結婚は重要なステップとなる。既にインドでは徐々にそういう結婚が浸透しつつある。

 ディヤーのキャラは庶民党躍進の賜物だ。彼女が劇中で実践するひとつひとつの行動は、NGOやボランティアを母体とした庶民党の活動と見事に一致する。特にハンガー・ストライキのシーンでは、庶民党の象徴である白い帽子をかぶっており、完全に庶民党のイメージを踏襲している。ただ、彼女の活動はあくまでサイドストーリー扱いであり、インドの社会問題を深くえぐった作品でもなければ、この映画自体が庶民党を支持しているという訳でもない。それにも関わらず、気になったのはグジャラート州のジュムリー村でのシーンだ。周知の通り、グジャラート州はナレーンドラ・モーディー州首相(当時)の統治の下、インド随一の経済発展を成し遂げた。そのグジャラート州をわざわざ名指しし、そこにも橋がなくて困っている村があるということを示したということは、当時からインドを席巻していたモーディー・ウェーブへのアンチテーゼと読み取ることも可能である。

 シュリーラームはディヤーを偽善者と呼んだ。その理由は、何不自由ない裕福な環境で育ち、それを維持しながら、正義を振りかざして抗議活動などを行っていたからである。果たして、社会的弱者のために戦うには、自分も彼らと同じ境遇に身を置かなければならないのだろうか。それをしなければ、偽善者呼ばわりされても仕方がないのだろうか。その答えは映画中では出ていないし、簡単に答えが出せるものでもないだろう。ただ、ディヤーはその言葉を真摯に受け止め、大都市の高級マンションでの生活や都市部での社会活動を投げ出し、僻地の村に身を置いて最貧層の人々のために身を粉にして活動するようになった。そしてその環境においても彼女は結果を出した。全ての人にそういう行動を促すことは極論であるが、「村を見よ」というのはマハートマー・ガーンディー以来の警鐘であり、その繰り返しだと捉える程度でいいだろう。

 ただ、「Gori Tere Pyaar Mein」の基本は恋愛映画である。そしてこの映画が主張していた命題は、「人を愛するためには、まず自分を愛さなければならないかどうか」ということだ。シュリーラームは、ヴァスダーとの結婚を望むカマルジートに対し、「宗教を何もかも捨てて彼女と結婚するつもりか。まずは自分を愛せ」と叱責する。確かにシュリーラームは強い自己愛のある人間だった。そしてこの台詞は、自分の行動を正当化するものだった。彼はコミュニティーの異なるディヤーとの結婚を諦め、同じコミュニティーに属するヴァスダーとの結婚をしようとしていたからだ。だが、結婚において一番重要なのは愛であると気付き、ヴァスダーとの結婚式から逃亡して、ディヤーを探す。そしてディヤーのためにプライドをかなぐり捨てて行動する。結局は、「愛は何をも捨てる価値のあるものだ」というメッセージを発信していたと言える。

 音楽は多めで、キャッチ―な曲が多い。だが、気になったのはジュムリー村のシーンで「Lagaan」(2001年)の音楽が使われていたことだ。「Lagaan」の物語自体は北インドの農村を舞台にしていたのだが、ロケはグジャラート州カッチで行われた。一方、「Gori Tere Pyaar Mein」の村は、劇中ではマディヤ・プラデーシュ州境にあるグジャラート州の村ということになっており、実際にはフィルムシティーに建てられたセットのようだ。おそらくグジャラート州でロケが行われたことを念頭において、「Lagaan」で出て来た村とよく似た村ということで、「Lagaan」の音楽が使われていたのだと思う。

 ストーリー上の必要性から、ヒンディー語の他にタミル語、パンジャービー語、グジャラーティー語が使われていた。特にシュリーラームがジュムリー村に滞在する内にグジャラーティー語を自然に覚えて行くところは、彼が村に溶け込んで行く様子をよく表していた。

 「Gori Tere Pyaar Mein」は、大味なところもあったが、社会的メッセージを込めた娯楽映画として、最近のトレンドを踏襲する作品である。庶民党最盛期に公開されたこともあり、社会活動によって世直しをする理想に燃えている。時代をよく反映した佳作だと言える。

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