Midnight’s Children (English)

ィーパー・メヘター監督と言えば「Fire」(1996年)、「Earth」(1998年)、「Water」(2005年)の三部作で有名な、カナダ在住のインド系女性映画監督である。インドのタブーに問答無用で切り込むような作品が多く、ヒンドゥー教やイスラーム教の原理主義者たちからは目の敵にされている。

 英語映画「Midnight’s Children」は彼女の新作であり、インドでの一般公開は2013年2月1日。僕が日本に完全帰国する直前に封切られた作品であるが、帰国間際で忙しく、映画館での鑑賞はできなかった。今年のインド旅行時にDVDは入手しており、最近やっと観ることができた。

Midnight's Children

  「Midnight’s Children」の原作は、パーキスターン系英国人作家サルマーン・ルシュディーの同名小説(1980年)である。「真夜中の子供たち」の邦題で日本語訳も出版されているほど有名な作品だ。ここ最近、英語文学の文壇で南アジア系英語作家は勢いがあるが、サルマーン・ルシュディーは「Midnight’s Children」でその先駆けのひとりとなった。よって、英文学史上でも重要な作品である。

 この小説は、印パ分離独立の瞬間である1947年8月14日から15日にかけての真夜中に生まれた子供たちが中心の物語だ。インドの占星術では、誕生の瞬間の天体の位置関係で一生の運命が決まるとされており、誕生の日時が同じなら、生涯で直面する問題も共通することになる。印パ分離独立の瞬間に生まれた子供はつまり、インドやパーキスターンと同じ運命を辿ることになる。サルマーン・ルシュディー自身が、8月15日前後ではないものの、1947年生まれであり、インドやパーキスターンの同い年として、両国のアップダウンと共に人生を歩んで来たという自負があるのだろう。

 ただ、「Midnight’s Children」は歴史小説ではない。歴史小説の要素をふんだんに盛り込みながらも、超常的パワーの存在を認めており、ファンタジー要素も強い。一般には「マジカル・リアリズム」というジャンルに分類されている。

 映画「Midnight’s Children」は、原作者サルマーン・ルシュディーの全面協力の下に作られた。彼がストーリーを構成し直して脚本を書き、自らナレーションも務めている。よって、単純な映画化ではなく、原作の改訂版の性格も持っている。小説を原作にした映画は少なくないのだが、「Midnight’s Children」については、原作者の関与が非常に強いこと、文学史上の重要性が別格であることなどから、やはり小説と併せてこの映画を鑑賞する必要を感じた。順番としてはまずDVDで「Midnight’s Children」を鑑賞し、その後、8月の期間を使って英語の小説を一通り読破した。今回は、原作と映画の2つを対比する形で、この作品について書いてみようと思う。

 まず、映画「Midnight’s Children」は原作の忠実な映画化ではない。大枠では原作をなぞっているものの、細かい部分で様々なエピソードが割愛されており、登場人物の数も原作に比べたら圧倒的に少ない。原作では、主人公サリームがパドマーという女性に半生を語るというスタイルを取っているが、映画ではその状況設定も省かれている。それでもキャストの数は相当なもので、演じるのも多くはインドを代表する俳優ばかりである。主に以下のような登場人物が出て来る。

  • サリーム・スィナーイー(サティヤ・バーバー)
  • パールワティー(シュリヤー・サラン)
  • シヴァ(スィッダールト)
  • サリーム少年(ダルシール・サファリー)
  • ガーニー(アヌパム・ケール)
  • ナスィーム(シャバーナー・アーズミー)
  • メアリー(スィーマー・ビシュワース)
  • ウィリアム・メスウォールド(チャールズ・ダンス)
  • ウィー・ウィリー・ウィンキー(サムラート・チャクラバルティー)
  • アーダム・アズィーズ(ラジャト・カプール)
  • ジャミーラー(ソーハー・アリー・カーン)
  • ズルフィカール(ラーフル・ボース)
  • エメラルド(アニター・マジュムダール)
  • ムムターズ/アミーナー(シャハーナー・ゴースワーミー)
  • ジョゼフ・デコスタ(チャンダン・ロイ・サンニャール)
  • アハマド・スィナーイー(ローニト・ロイ)
  • ピクチャー・スィン(クルブーシャン・カルバンダー)
  • ナーディル・カーン(ザイブ・シェーク)
  • ハーディー(ヴィナイ・パータク)
  • ローレル(ランヴィール・ショウリー)

 原作・映画共に主人公はサリームである。だが、物語はサリームの誕生から始まらない。彼の祖父が祖母と結婚する前後から始まり、サリームの子供が言葉をしゃべり始めるまで、4世代70年に渡る壮大なドラマである。なぜそんなに遡って語られるのかと言うと、サリームの出自が非常に複雑だからである。彼は両親とは血のつながりがないが、彼の子供は彼の両親の生物学上の孫となる。なぜなら、彼は本来は貧しい大道芸人ウィー・ウィリー・ウィンキーとヴァニターの息子だったのだが、生まれた瞬間に看護婦メアリーによって富裕層アハマド&アミーナー・スィナーイー夫妻の子供シヴァと交換されてしまったからである。なぜメアリーがそんなことをしたかと言えば、恋人で革命家のジョゼフが熱弁していた「富者を貧者に、貧者を富者に」というスローガンに感化されたからである。ただ、サリームはウィー・ウィリー・ウィンキーと血のつながりがある訳ではなく、スィナーイー夫妻が住む邸宅の元々の主だった英国人ウィリアム・メスウォールドがヴァニターを孕ませて生ませた子であった。また、スィナーイー家の実の息子でありながら運命の悪戯によって貧困生活を送ることになったシヴァは、サリームの妻となるパールワティーと子供を作っている。その子はアーダムと名付けられた。このような複雑な事情により、生物学上アーダムは父サリームと血のつながりがないものの、祖父母アハマド&アミーナー・スィナーイーとは血のつながりがあることになる。血縁上のこの複雑さと数奇さが、「Midnight’s Children」の柱の一本となっている。

 主人公サリームの出自だけで無数のドラマが生まれる可能性を秘めているのだが、それに加えて、たまたま彼は印パ分離独立の瞬間である1947年8月15日午前0時ちょうどに生まれたために、テレパシーなどの超能力を持つことになった。その瞬間に生まれた子供が超能力を持つというのはもちろん全くのフィクションであるが、小説の中でそれについてあまり論理的に解説されていないところが、逆に「そういうものなのだ」という説得力を持っているように思われる。シヴァを含め、他にもこの真夜中に生まれた子供たちがインド中に何人もおり、彼らもそれぞれ超能力を持っている。誕生の時間が午前0時に近ければ近いほど、より強力なパワーを持つことになる。この子供たちが「真夜中の子供たち」なのである。サリームは、午前0時ちょうどに生まれた者として、「真夜中の子供たち」を取りまとめる役割を担い、彼らをテレパシーで招集して会議を開くようになる。サリームのこの能力は途中で失われてしまうのだが、シヴァを含む「真夜中の子供たち」とはその後再会することになる。シヴァは強靱な膝と圧倒的な戦闘力を持っており、後に優れた軍人となる。サリームの妻となるパールワティーも「真夜中の子供たち」の一人で、物を消したり出現させたりする能力などを持っている。

 サリームの人生は、印パ分離独立の瞬間に生まれたというその数奇な運命から、印パの歴史的事件と共に浮き沈みを繰り返す。また、サリームは運命に翻弄されながら、インド、パーキスターン、新生国家バングラデシュ、そして再びインドへと居場所を変える。マハートマー・ガーンディー暗殺、中印戦争、アイユーブ・ハーンのクーデター、バングラデシュ独立戦争など、各国を揺るがす事件が起こるのと呼応して、サリームの人生には様々な事件や転機が訪れる。それだけでなく、いくつかの事件には彼自身が関わったことになっている。

 だが、極めつけはインディラー・ガーンディー首相によるエマージェンシー(非常事態宣言)の描写である。インディラーは作中もしくは劇中、実名では出て来ないが、「ウィドウ(未亡人)」と言うコードネームで呼ばれる。ウィドウは、占星術師に「印パ分離独立時に生まれた子供が災厄をもたらす」と警告されたことをきっかけに、国中の「真夜中の子供たち」を逮捕し出す。それを支えていたのが、バングラデシュ独立戦争で武功を上げ、英雄的軍人となっていたシヴァだった。このときまでにサリームは肉親をほとんど失い、身を落として、デリーのジャーマー・マスジド裏にあるスラム街に住んでいた。シヴァはスラム街を破壊し、サリームを捕える。エマージェンシーの期間、サリームは他の「真夜中の子供たち」と共にバナーラスの収容所に収容され、拷問を受ける。そして、エマージェンシーの終了とインディラー・ガーンディーの失脚と共にサリームは解放される。 原作の出版時期がエマージェンシー終了から間もない頃であることからも、「Midnight’s Children」の主要テーマのひとつがエマージェンシー批判であることが分かる。憲法が停止され、言論が封殺され、自由が抑制されたエマージェンシー時代をインドの暗黒時代として堂々と描写し、インドと運命を共にするサリームの人生もどん底を迎えることで、それを二重に浮き彫りにする。そして、サリームは収容所から解放後に息子のアーダムと再会するのだが、その子が「真夜中の子供たち第二世代」と呼ばれ、新たな時代の幕開けを予感させている。

 長さは2時間半ほどで、最近のインド映画としては標準である。だが、原作で描かれた出来事をただ追っているようなところが多く、独立した映画として見た場合、果たして物語としての面白さを訴求できていたか疑問である。原作の公式な短縮バージョンと言った位置づけに過ぎないのではないかと感じた。

 ちなみに、映画はスリランカで撮影された。インドやパーキスターンなどでは「Midnight’s Children」、サルマーン・ルシュディー、そしてディーパー・メヘターを面白く思わない過激派がおり、安心して撮影ができなかったための措置である。また、かつてBBCがこの小説をドラマ化しようとしたことがあり、やはりスリランカでの撮影を模索したが、現地のイスラーム教徒から反対があり、実現しなかったことがあった。そんなこともあり、スリランカでの撮影も決して気を抜けるものではなく、別の映画を撮影していると表で公表しながら裏で密かにこの映画を撮影したとのことである。制作に少なくとも5年は掛かっており、その間キャストの変更などもあって、完成できただけでも御の字という困難なプロジェクトだった。

 内容はともかくとして、「Midnight’s Children」の世界を強い信念と共に映像化したことはひとつの業績だと評価できるだろう。 原作はかなり自由奔放な英語で書かれており、しかも終盤になってようやく登場する人物が序盤で言及されていたりするため、ストーリーが頭に入っていないと原文で読むのは苦労する。だが、映画で一通り予習しておくと、かなりテンポ良く読むことができる。ありがちな「原作と映画、どちらが優れているか」などの議論には足を踏み入れないが、これだけは言える。難解なマジカル・リアリズム小説「Midnight’s Children」の世界への入門編として、映画「Midnight’s Children」の存在価値は十分ある。独立前後70年に渡るインド亜大陸の主要な事件への言及もあるため、20世紀の南アジア史を文学的に楽しみながら概観することもできる。原作が文学史上、重要な意義を持つ作品であるため、その七光りで一定の意義を持つ映画となっている。

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