Papilio Buddha

ら国際映画祭で日本未公開のインド映画が2本公開されると聞いて、奈良に来ている。9月13日には「Liar’s Dice」という映画を観たが、最終日の15日には、「Papilio Buddha」という2013年5月15日公開の映画を鑑賞した。この映画は同映画祭の特別招待作品となっており、監督来場と上映後質疑応答があった。

 「Papilio Buddha」とは、西ガート山脈特有の蝶の名前である。日本語では「ブッダオビクジャクアゲハ」と言うようだ。羽根に明るい緑色の模様があるのが特徴で、世界で最も美しい蝶のひとつとして知られているが、名前の中に「ブッダ」という語があるのも魅力を高めている。この映画の言語は基本的にマラヤーラム語で、多少英語が混じる。監督はジャヤンKチェリヤーン。ドキュメンタリー映画畑の監督で、本作が初の長編映画となる。ダリト(不可触民)問題をかなり過激に生々しく扱っている他、罵詈雑言、残忍な強姦シーン、マハートマー・ガーンディー批判など、あらゆるタブーに抵触しており、検閲から相当数のカットを指示されたと言う。

Papilio Buddha

 

 キャストの中でよく知っている人物はいない。SPシュリークマール、サリター、カレーン・ポックダンの3人がメインキャラクターとなる。

 映画を観る前の前提として重要なのはネオブッディスト(新仏教徒)についての理解である。劇中で仏教を信奉する人々が登場するが、彼らはブッダの時代から連なる仏教徒ではなく、インド独立後にカースト制度の抑圧から逃れるためにヒンドゥー教から仏教に改宗した人々である。ダリト出身で、インド憲法の起草に関わったビームラーオ・アンベードカルが1956年に仏教に改宗し、ダリトたちがそれに続いて集団改宗したことがあったが、それ以降、新しく仏教徒になったダリトをネオブッディストと呼んでいる。彼らはアンベードカルをブッダ以上に信奉しており、その点で他の仏教徒の信仰とは大きく異なる。また、仏教に改宗しても彼らの社会的地位の低さはそんなに変わらず、引き続き差別対象となっている。「Papilio Buddha」は、ケーララ州の西ガート山脈森林地帯に住むネオブッディストの受難が主題であり、彼らに絡むいくつかの実際の事件を再構成して一本の物語にしている。

あらすじ

 ケーララ州メッパラの森林でダリト仏教徒たちが公有地を占拠する事件が起こっていた。この運動を指揮していたのがカリヤン(カレーン・ポックダン)であった。カリヤンはプラヤと呼ばれるダリトであり、土地分配の対象からダリトが除外されたことで政府に反旗を翻していた。一方、米国人のジャック(デーヴィッド・ブリグス)が蝶の採集のために来ており、カリヤンの息子シャンカラン(SPシュリークマール)をガイドとして雇っていた。シャンカランは米国留学を夢見ており、ジャックを通じてその夢を実現させようと考えていた。

 しかし、警察や上位カーストからの抑圧はますます強くなって行った。シャンカランは、抑圧された人々のためのNGO団体SEEMに関わるが、その中でも彼は差別を受けていた。あるとき森林を散策していたジャックとシャンカランは警察に逮捕され、ジャックは国外退去処分となり、シャンカランはマオイストとの関与を疑われて拷問を受ける。また、ダリトの子供たちのための学校を運営するプラヤ女性マンジュシュリー(サリター)は、資金を工面するためにオートリクシャーの運転手をしていたが、他のオート運転手から性的な嫌がらせを受ける毎日だった。ある日、彼女が反撃したところ、それの報復として集団強姦を受ける。

 マンジュシュリーの事件を契機に若いダリトたちが結束し、当局や上位カーストに対する運動を開始する。政府はガーンディー主義団体の助けを借りて運動を沈静化しようとするが失敗し、結局は警察によるラーティーチャージ(警棒による鎮圧)によって土地を不法占拠したダリトたちを追い出すことになる。土地を追い出されたダリトたちは、安住の地を求めて放浪することになる。

解説

 物語の核となるのは、アンベードカルを信奉するダリト仏教徒たちが土地分配の権利を主張して公有地を占拠する事件である。この事件に一応の決着が付いたところで終幕となっているし、この運動を通して監督のメッセージが多く発信されているため、これは「Papilio Buddha」の中の芯だと言える。だが、この事件と題名の蝶とは直接関係がないし、この運動の顛末を追った映画でもない。やはり主人公はシャンカランであり、彼の人物像の理解が映画全体の真の理解につながるだろう。

 シャンカランは、土地占拠運動を指導する老人カリヤンの息子である。だが、彼はいまいちその運動に乗り気ではなく、自堕落な生活を送っている。幻の蝶パピリオ・ブッダなど、西ガート山脈の珍しい蝶を採集に来た米国人ジャックのガイドとして一時的な仕事はしているものの、大したことはしていない。

 しかし、シャンカランは、社会の低下層に位置し、全方位から差別を受けるダリトでありながら、ジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)を出ている。JNUはインドのトップ大学である。つまり、彼は飛び抜けて高度な教育を受けている。貧困層が貧困のまま留まる大きな原因は教育の不足とその質の悪さであるが、シャンカラン自身はその障害を乗り越えており、通常のダリトとは立ち位置が異なることをまず理解しなければならない。彼が米国留学を夢見ていたのも、それを夢見ることができるだけの学識があるからであるし、ジャックから頼りにされていたのも、学生時代に動物学を専攻していたこともあるが、やはり村には珍しく流暢な英語を話すからでもあろう。通常のダリト映画だと金も学もないどん底のダリトが主人公になるところだが、「Papilio Buddha」の場合、少なくともシャンカランは教育のあるダリトであった。

 インドでは留保制度が導入されており、入学や就職の際、不可触民や部族など、歴史的に差別を受けて来たコミュニティーの人々は優遇措置を受けている。おかげでダリトでも一定の学力さえあれば高等教育を受けることが可能である。ダリトに対する差別の数々が描写されている映画ではあるが、この点については不可触民の社会的地位向上が図られていることを認めなければならないだろう。

 また、シャンカランが通ったJNUは「レッド・キャンパス」の異名を持つ左翼の牙城であり、JNUで学んだという設定は、ほぼそのまま、マルクス共産主義を始めとした左寄り思想の洗礼を受けたことを意味する。それにも関わらず父親の主導する運動に関心を示していないのは不思議である。JNUに入学したものの、無為に過ごしていたのではないかと思われる。逆に上位カーストの学生の方がダリト問題に敏感で、被抑圧者の地位向上に積極的に関与している様子が暗示されていたように思う。ただ、そういう意識の高い人々の間でもダリトに対する差別は根強く、カリヤンの運動に対しても、「ダリトに土地を与えたらどうせ売り払ってしまう」などと否定的であった。左翼かぶれインテリ層が抱える問題は日本とも共通するものがあるだろう。

 シャンカランは、若い世代のダリトを代表しているのだと言える。親の世代は、ダリトが歴史的に酷い差別を受けて来たことに敏感で、もしダリトの地位がほんの少しでも過去より改善されているとしたら、アンベードカルなどの偉大な先人による献身的な政治活動のおかげであり、権利は戦って勝ち取らなければならないとの強い意識を持っている。それに対し、シャンカランの世代は、子供の頃からある程度の権利を享受しており、闘争を繰り広げる意味を理解しない。むしろ彼は個人の夢を追求することを望む。

 だが、シャンカランは、いくら高い教育を受けても英語を話しても、受ける差別は変わらないことを徐々に理解して行く。仲間だと考えていたNGO団体の仲間たちから「こいつは不可触民だから」とからかわれ、ダリト作家カーンチャー・イライヤーの著作を読んでヒンドゥー教教理の理不尽さを知り、警察からは非人道的な拷問を受け、そして心を許した女性マンジュシュリーが集団強姦に遭う。これらの事件を通し、シャンカランはダリトのための闘争に身を投じる。親の世代は非暴力主義に重きを置くが、若い世代はそうもいかず、過激化する傾向にある。「Papilio Buddha」が最も強く警鐘を鳴らしていたのはこの部分だと読み取れる。

 アンベードカルとガーンディーの確執については新しい論点ではない。「ガーンディーはカースト制度の擁護者だった」という批判はアンベードカル陣営から度々なされて来たものである。劇中では、ガーンディー主義者たちとネオブッディストたちの対峙が象徴的に描かれていた。その他、インド共産党(CPI)政治家EMSナンブーディリパード、ダリト活動家アイヤンカーリなど、ケーララ州政治史上の重要人物が何人か実名で登場する。当然、ダリト側の視点からそれらの政治家が評価されている。ガーンディーの写真を燃やすシーンなど、かなり過激な描写の仕方がされており、検閲の対象となった。

 その他にもこの映画ではかなり凄惨な暴力シーンが出て来る。シャンカランの拷問シーンでは、コンドームに唐辛子の粉のようなものを詰め込み、それを男性器にはめるという拷問の方法が採られていた。また、マンジュシュリーの強姦シーンも非常に生々しい。基本的に長回しを多用した撮影手法なので、これらの暴力シーンも長々と描かれる。局部が映し出されていたので、これはさすがにこのままではインドで上映できないだろう。台詞にも、酷い罵詈雑言が含まれていて異質であった。

 主題とは異なるが、同性愛が普通に描かれていたのも気になった。ジャックとシャンカランの間で同性愛的な関係があることが示唆されていたシーンがあったし、女性同士のキスシーンもあった。また、ガーンディーがホモだったか否かということを話し合うシーンもあった。それがストーリー上で何か重要な意味を持つことはないのだが、それがかえって意味深であった。

 「Papilio Buddha」は、ケーララ州の新仏教徒ダリトたちが当局に対して行った土地占拠運動を背景に、若いダリトのシャンカランが不可触民制度の理不尽さに気付き、覚醒して行く様子を淡々と綴った作品である。劇中では何の解決法も提示されていない。ただインドのダリトたちが置かれた状況を少しでも多くの人に知ってもらうという目的で作られた映画である。

Print Friendly, PDF & Email

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です