Sir

2018年にカンヌ国際映画祭批評家週間に出品され、GAN基金賞を受賞したインド映画「Sir」が、2019年8月2日に日本で「あなたの名前を呼べたなら」という邦題と共に一般公開された。監督はローヘナー・ゲーラー。主演はティロータマー・ショーメー、ヴィヴェーク・ゴーンバルなど。ゲーラー監督にとって本作が長編デビュー作である。ティロータマーは、「モンスーン・ウェディング」(2001年)でメイド役を務めていた女優で、今回も同様にメイド役を演じる。ただ、彼女は決してメイド専門女優ではなく、例えば「Hindi Medium」(2017年)ではコンサルタント役を演じていた。言語は主にヒンディー語だが、英語とマラーティー語も台詞に混じる。



 舞台はムンバイー。マハーラーシュトラ州の田舎から出稼ぎに来ている未亡人ラトナー(ティロータマー・ショーメー)は、米国帰りの建設業者アシュヴィン(ヴィヴェーク・ゴーンバル)のメイドとして働き始める。アシュヴィンはサビナーと結婚する予定だったが、突然キャンセルとなったため、落ち込んでいた。ラトナーはアシュヴィンに健気に仕える。しばらく時間が経つ内に、二人の間には特別な感情が生まれ始める・・・。そんなストーリーだ。

 題名の「Sir」とは、目上の人への呼びかけであり、インドではよく使われる。ラトナーがアシュヴィンに呼びかけるときも常に「Sir」だ。しかし、アシュヴィンがラトナーに惹かれると、彼は自分のことを名前で呼ぶように言う。目上の人を名前で呼ぶのは失礼なことであり、もしそうした場合、二人の関係は対等のものとなってしまう。ラトナーは頑なに拒否する。だが、最後のシーンで彼女は彼に「アシュヴィン」と呼びかける。これによって、ラトナーがアシュヴィンに心を開いたことが暗示される。

 この物語は、メイドと雇用主の間に生じた禁断の恋愛を控えめに描写している。メイドは19歳で未亡人になった女性。雇用主は許嫁の浮気によって結婚が破談になったばかりの男性。この二人が心を徐々に近づけていく。インドの社会に少しでも造詣がある者なら、これはほとんど有り得ない設定であることが分かる。有り得ない設定を敢えて映画で描くことでドラマティックにしているのだが、それにしても有り得ない。アシュヴィンがラトナーの何に惹かれたのか、分からない。

 百歩譲って、この二人が恋仲になったとして、その後のことがこの映画ではほとんど触れられていなかった。二人の仲が怪しいことを察知した周囲の人々は異口同音に反対する。仮に二人が結婚することになった場合、大変なスキャンダルになることは目に見えている。そういう大変な「その後」を描かずに、一番美しい場面までで物語を打ち切っていたのは、逃げだと感じた。

 だが、ラトナーの境遇にはメッセージ性があった。病気を隠して結婚した夫が結婚後すぐに亡くなったため、ラトナーは19歳で未亡人になってしまう。田舎で若くして子供を持たずに未亡人となることは、人生の終わりを意味する。なぜなら、伝統的にインドの女性は男性とは独立して存在できず、幼少時は父親に、結婚後は夫に、そして老齢時には息子に依存するものと考えられているからだ。彼女は身を寄せる場所がなく、仕方なくムンバイーに出て来たのだった。だが、都会に出て来たことで、未亡人という自身の境遇を克服して生きることを学ぶ。そして彼女は自立するために仕立てを学び始める。アシュヴィンとの恋愛抜きにこの映画を観れば、逆境に置かれた一人の女性が力強く生きようとする姿を描いた良作と評価できる。

 キャスティングや台詞回しなど、非常に写実的に描かれていた。ティロータマー・ショーメーは、グラマラスなルックスではないために、メイドのような庶民層を演じさせたら真に迫るものがある。一方で、アシュヴィンやその家族はいかにも裕福なインド人の外観である。さらに、ラトナーが田舎の妹と話すときはマラーティー語、アシュヴィンらと話すときはヒンディー語、そしてアシュヴィンが家族や友人と話すときは英語と、インドの社会で実際に運用されている言語状況がよく反映されていた。

 「Sir」は、メイドと雇用主の間の禁断の恋愛を描いた作品である。あまりに非現実的なストーリーであるため、感情移入は難しいが、主人公ラトナーの境遇のみに注目すると、いい作品に見えて来る。娯楽映画とは全くかけ離れたインド映画の一種ではあるが、インドの社会を写実的に描いている点なども含めて、佳作と言える。恋愛の部分さえなければ、もっと評価は高かった。

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