Song of Lahore (Pakistan)

2012年の始め、音楽評論家のサラーム海上氏と南アジア学者の村山和之先生がデリーを訪れた。そのときにまだデリーに住んでいた僕は、彼らとニザームッディーン廟へカッワーリーを聴きに行った。確かニザームッディーン・アウリヤーのウルス(命日祭)だったはずだ。二人はデリーの直前にパーキスターンを旅行しており、その話にもなったのだが、その中で、ラホールではサッチャル・スタジオを訪ねたと言っていた。そのときには既にサッチャル・スタジオの名前くらいは聞いていたが、それがこのような形で今日につながって来るとは予想もしなかった。

 日本で8月13日から一般公開された「ソング・オブ・ラホール」は、21世紀の初頭にロンドン在住の実業家イッザト・マジードがラホールの恵まれない音楽家たちを集めて設立したサッチャル・スタジオが世界デビューを果たすまでを追った長編ドキュメンタリー映画である。プロデューサー・監督はシャルミーン・ウベード=チナーイというパーキスターン人女性。短編ドキュメンタリー映画に長けており、これまで「Saving Face」(2012年)と「A Girl in the River: The Price of Forgiveness」(2015年)の2作でアカデミー賞の短編ドキュメンタリー映画賞を受賞している。今回の「ソング・オブ・ラホール」は彼女にとって初の長編ドキュメンタリー映画とのことである。

 「ソング・オブ・ラホール」は8月13日から東京を皮切りに全国各地で順次公開されるのだが、この日、他に予定もなかったので、わざわざ東京まで出掛けて、日本におけるファーストデー、ファーストショーを渋谷のユーロスペースで楽しんだ。ちなみに8月3日にはユーロスペースと同じ建物KINOHAUSにあるLOFT9 Shibuyaにて、サラーム海上氏、村山和之先生、そしてスィタール奏者ヨシダダイキチ氏の3氏によるトークショー「パキスタンから世界へ!超絶演奏楽団サッチャルの魅力を語る」があり、この日たまたま東京にいたため、これに参加している。よって、今回のレビューは、実際に映画を観てのものに加えて、このトークショーからの情報も織り交ぜている。

Song of Lahore

 

 映画でもラホールについての説明から始まるので、ここでもまずラホールについて少し解説する。ラホールはパーキスターンのパンジャーブ州にある都市で、かつてはインド側のパンジャーブ州を含む全パンジャーブ地方の中心都市として長く栄えていた。古代ローマ時代の学者プトレマイオス(1-2世紀)の「地理学」にもラホールと比定される地名が記述されていることから、街の歴史は少なくとも紀元前後まで遡ると言っていい。地名の由来は、どうもラーマ王子の双子の息子の一人ラヴと関係しているようだ。今でもラホール・フォートの中にラヴ寺院がある。

 「パンジャーブ」とは「5つの河」という意味で、インダス河より東にあるインダス河の5本の支流――西からジェーラム河、チェナーブ河、ラーヴィー河、ビヤース河、サトルジ河――を示している。この5本の河の流域がパンジャーブ地方である。ラホールはラーヴィー河の東岸に位置しているが、それは5本の河の流域のちょうど中心部にある。英国人がインドに来る前は、インド亜大陸への侵略者は常に西からやって来たが、その多くはインド世界の境界線であるインダス河を越え、まずはパンジャーブに足を踏み入れ、ラホールをうかがった。インド亜大陸にイスラーム教徒の為政者による政権が初めて打ち立てられたのもラホールであった。ムガル朝時代には、デリー、アーグラーと並ぶ帝国の首都として栄え、音楽をはじめとした芸術も振興された。映画の中では、イッザト・マジードの口から、ラホールの栄光の時代がやや誇張気味に表現されていたが、それでもそれは決して根拠のない話ではない。

 1947年の印パ分離独立後、ラホールはパーキスターンの領土となり、ラホールに首都が置かれた時代もあった。文化の都としての地位もしばらくは安泰だった。ラホールはパーキスターン映画の中心地でもあり、音楽家たちは映画音楽の演奏をすることで生計を立てることができていた。ところが1977年、ズィヤーウル・ハク将軍がクーデターにより政権を奪取し、国家のイスラーム化を推し進めた。イスラーム教の教義において「音楽は罪」とされていると解釈され、音楽家たちにとって受難の時代が始まった。多くの音楽家が楽器を置いて別の仕事をし始めた。1988年にズィヤーウル・ハクが死去すると、音楽に対する抑圧は緩んだが、1990年代、今度はターリバーンが現れ、音楽を厳しく規制し始めた。音楽家が殺される事件も起こった。パーキスターンの音楽はこうして死滅の道を歩みつつあった。サッチャル・スタジオが設立されたのは、そんなときだった。創立者のイッザト・マジードは、絶滅の危機に瀕したラホールの音楽家たちに息を吹き込み、自身のルーツを忘れつつあるパーキスターン人に音楽を通してそれを思い出させようという高い使命感を抱いて、サッチャル・スタジオを運営している。

 以上が時代背景だが、他に2つ、サッチャル・スタジオに所属する音楽家たちが、パーキスターンにおいて音楽を演奏する上で直面する問題について言及していた。ひとつは映画中の字幕で「カースト」と訳されていた問題である。「カースト」と言うとヒンドゥー教特有の現象で、イスラーム教徒が大多数を占めるパーキスターンではカーストはないだろうと考えている人もいるかもしれないが、実は南アジアにおいてはイスラーム教徒にも階級があり、それはヒンドゥー教のカースト制度とほとんど同じ構造となっている。ただ、「カースト」という訳し方が適切だったかどうかは議論に値するだろう。台詞の中では「ミーラースィー」という言葉が使われていた。サッチャル・スタジオの音楽家たちの何人かは、今まで自分が演奏家であることを隠して生きていたと語っていたが、その理由は、ズィヤーウル・ハクやターリバーンによる音楽禁制ではなく、周囲から「ミーラースィー」と思われるのが嫌だったからだ。「ミーラースィー」とは音楽に携わるコミュニティーのことであり、社会の中では底辺に位置づけられていることが多い。印パを問わず、芸能に関わるコミュニティーは基本的には低階層と見なされており、そういう偏見を避けるために彼らは素性をあまり明かそうとしなかった。演奏の練習をするときも、防音設備のある部屋で行い、周囲に楽器を演奏していることがばれないようにしていたと言う。

 もうひとつは宗派の問題である。イスラーム教にも多数の宗派があり、その中でもスンナ派とシーア派が二大宗派であることは、多くの人が世界史の時間などで習ったことだろう。実は上の話とも関わりがあるのだが、サッチャル・スタジオに所属する音楽家たちはどうやらシーア派のようだ。南アジアにおいて、イスラーム教徒の音楽家はシーア派であることが非常に多い。パーキスターンではシーア派は少数派である。一方、ターリバーンは多数派のスンナ派で、シーア派の弾圧を行ってきた。このような事情からも、サッチャル・スタジオの音楽家たちは平穏ではない日々を過ごしていたのである。

 さて、イッザト・マジードはサッチャル・スタジオを設立し、ラホールの音楽家たちを集めオーケストラを結成して、古典音楽などを録音したのだが、そもそもパーキスターン国内に聴き手がおらず、全く売れなかった。そこで彼は見切りを付け、国内がダメなら海外に打って出ようと、世界の名曲を印パの古典音楽的にアレンジした曲作りに着手する。そのために彼が選んだ曲のひとつが、デイヴ・ブルーベック・カルテットの「テイク・ファイブ」であった。印パの古典音楽とジャズ。どちらも即興の要素が強く、共通点はないことはない。だが、スィタールやタブラーでジャズ曲を演奏することは、普通は単なる遊びということで終わってしまうだろう。特に、音楽の愛好家ほど、そういう邪道な行為に対して眉をひそめがちだ。サッチャル・スタジオ・オーケストラの「テイク・ファイブ」についても、時代が時代なら、そのまま埋もれてしまっていたかもしれない。だが、現代にはYouTubeがあった。彼らが演奏し、映像を付けてYouTubeにアップロードした「テイク・ファイブ」は、瞬く間にアクセスを獲得し、遂にBBCがニュースとして取り上げるまでとなった。サッチャル・スタジオ・オーケストラがブレイクしたきっかけとなったのが以下の動画である:

 確かに音はかっこいい。それと、白いクルターを着たごく普通そうなおっさんたちが仏頂面してバイオリンを弾いている姿とのギャップがすごく、インパクトが強い。何より、これは、決して息抜きや遊びではなく、真剣勝負の演奏であることが見て取れる。そんなこともあって、何度も見返し聞き返したくなる。多数の視聴回数を得た理由はよく分かる。そもそも、5/4拍子のこの「テイク・ファイブ」はブルガリア音楽の影響を受けているようである。ブルガリア音楽にもいろいろあると思うが、その一つは「ロマ」と呼ばれるジプシーたちの音楽だ。ジプシーはインド起源とされる。もしそれらが本当だとしたら、サッチャル・スタジオによる「テイク・ファイブ」のカバーは、地球を一周して「里帰り」した姿とも言えるかもしれない。

 また、イッザト・マジードが「テイク・ファイブ」などのジャズ曲をカバーしようとした動機について語るシーンも映画中にあった。冷戦時代、米国は米国文化を西側諸国に広めるため、文化大使を各地に派遣していた。デイヴ・ブルーベックも文化大使の一人であった。当時、パーキスターンは米国と近い関係にあり、米国文化大使によるジャズのコンサートも頻繁に行われていたようだ。イッザトも若い頃にデイヴ・ブルーベックのコンサートをパーキスターンで鑑賞し、ジャズに傾倒するようになったと言う。サッチャル・スタジオ・オーケストラが演奏する曲目は、言ってみればイッザトの若い頃の憧れの追憶であり、ベタな選曲になるのも無理はないのである。

 さて、BBCに取り上げられたサッチャル・スタジオ・オーケストラは、著名なトランペット奏者ウィントン・マルサリスからニューヨークに招待を受ける。そして、ジャズ・アット・リンカーン・センターで彼のオーケストラと共に演奏を披露することになる。映画の後半は、この願ってもみなかった展開に翻弄されるサッチャル・スタジオの演奏家たちの素顔が映し出されて行く。果たしてコンサートは成功するのか。それは自分の目で確かめてもらいたい。

 ところで、前述のトークショーでも言及されていたのだが、ニューヨークで演奏することになったスィタール奏者(2名)だけはどうもサッチャル・スタジオ所属ではないようだ。ヨシダダイキチ氏によると、最初に出て来たスィタール奏者はヒダーヤト・カーンと言い、伝説的なスィタール奏者ヴィラーヤト・カーンの息子であるらしい。1 おそらく、招待された人数か何かの関係で、ラホールからサッチャル・スタジオ所属のスィタール奏者を呼べず、現地で探したのだろうが、その辺りのことは「ソング・オブ・ラホール」では詳しく説明されていなかった。ただ、ヨシダダイキチ氏曰く、ヒダーヤトは「全然ダメな奴」のようで、映画中でも確かにダメっ振りを存分に発揮していた。そうではあるが、彼のおかげで映画に緊迫感が出ていたことは否めない。どんな風に緊迫感が出ていたのかについては、ここでは詳しく触れないでおこう。

 映画のクライマックスは、ジャズ・アット・リンカーン・センターでの、ウィントン・マルサリスのオーケストラとサッチャル・スタジオ・オーケストラの、ビッグ・バンド形式の共演だ。映画中では実際の映像が3曲のみ流れる。その内の1曲は、もちろんサッチャルの出世作「テイク・ファイブ」。CDやYouTubeなどで聴けるバージョンとは異なるので、新鮮だ。だが、音楽的に一番魅力があったのは、「リンボー・ジャズ」でのフルートとバーンスリーの掛け合いだ。ウィントン・マルサリスも思わず笑顔をこぼしていた。彼の「音楽の力を信じている」という言葉が、その感動をもっともよく表していた。

 「ジャズは虐げられた者の音楽」だと言う。だから懐が広く、印パの古典音楽すらも取り入れる。ラホールの音楽家たちも虐げられて来た者たちであり、彼らがジャズと出会ったのも必然だったのかもしれない。もっと言えば、パーキスターン人全体が、世界中から疑惑の目で見られている時代になっている。サッチャル・スタジオ・オーケストラの挑戦は、その偏見との戦いでもある。「パーキスターン人は芸術家だ。テロリストではない」という台詞が心に染みる。

 ドキュメンタリー映画ながら、ストーリーがあるために起伏があり、満足感がある。それに加えて、パーキスターンの音楽業界が抱える問題の提起があり、そして明るい未来に向けた希望や夢がある。何より、音楽映画としての魅力がある。またひとつ、パーキスターンから突然変異的な傑作映画が生まれた。パーキスターンでは、音楽だけでなく、映画も衰退の一途を辿っていたが、音楽と共に映画も息を吹き返しつつあるのと感じる。「ソング・オブ・ラホール」は必見の映画だ。また、この映画の公開を記念し、現在サッチャル・スタジオ・オーケストラを日本に呼ぼうとする動きもある。インシャーアッラー、実現しますように。

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  1. ヴィラーヤト・カーンは2回結婚しており、ヒダーヤトは2人目の妻の子供。1人目の妻からは3人が生まれており、その内の1人、シュジャート・カーンはヨシダダイキチ氏の師匠である。 []

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