Bukhara (Uzbekistan)

リーのジャマー・マスジドには「シャーヒー・イマーム」と呼ばれる世襲の称号を持った宗教指導者がいる。現在のシャーヒー・イマームはサイヤド・アハマド・ブカーリーである。シャージャハーンがジャマー・マスジドを建造したとき、このモスクのイマーム(指導者)としてブハーラーから適切な人物を呼び寄せたのがこの家系の起源であるらしい。現在では、シャーヒー・イマーム(皇帝のイマーム)といっても国内の全イスラーム教徒を統括するような立場にないが、それでもかつての皇帝から最大のモスクを任された由緒ある家系として、デリーでは一目置かれる存在である。

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 サイヤド・アハマド・ブカーリー。ヒンディー語では彼のタイトルを「ブカーリー」と読むことが多いが、「ブハーリー」とカタカナ表記してもよい。どちらにしても「ブハーラーの人」という意味である。なぜシャージャハーンはわざわざブハーラーからイマームとなるべき人物を呼び寄せたのか。それは、ブハーラーがイスラーム世界における文教都市として、バグダードに次ぐ地位を確立していたからである。学者ムハンマド・アル・ブハーリー、詩人ルーダキー、学者イブン・スィーナー、詩人フィルドウスィーなど、ブハーラーは世界に名だたる偉人を輩出してきた。もちろん、ブハーラーはシルクロードのオアシスとして栄えた町のひとつでもあるのだが、イスラーム世界におけるこの圧倒的な地位こそ、ブハーラーの人々が本当に誇っていることである。

 

 現在、ブハーラー(Bukhara/Buxoro)はウズベキスタンに位置している。ブハーラー州の州都で、人口は25万人ほど。ウズベキスタンの中では5番目の都市で、中規模都市といったところだ。アームー・ダリヤー河の支流であるザラフシャーン川の畔に位置しており、歴史上、トランスオクシアナ、ソグディアナ、マー・ワラー・アンナフル、もしくはトゥーラーンなどと呼ばれてきた地域の主要都市のひとつである。紀元前から人の居住が認められる、世界でも有数の歴史を持つ街でもある。世界遺産となっている旧市街には歴史的建造物が多数残されているが、1220年にチンギス・ハーンがブハーラーを侵略して主な建物を破壊してしまったため、多くの史跡は15世紀から20世紀初めにかけてブハーラーを首都として繁栄したブハーラー・ハーン国の時代に建造されたものだ。

 ブハーラーの遺跡はチンギス・ハーン以前と以降の2つに大別できるだろう。チンギス・ハーン以前に造られ、モンゴル軍の侵略を耐えた遺跡としては、まずマゴキ・アッタール・モスクが挙げられる。我々がブハーラーで宿泊したアジア・ブハーラーの真ん前にあり、ブハーラー旧市街の中心部とも言える場所に位置している。このモスクの歴史はイスラーム教より古い。かつてはゾロアスター教の寺院であり、仏教寺院を経て、ブハーラーのイスラーム化にともなってモスクになったといわれている。つまり、各時代において各宗教の中心地だった場所で、ブハーラーでもっとも聖なる場所だといえる。伝説では、チンギス・ハーンの襲来時、街の人々がこの建物を地面の中に埋めたため、破壊を免れたといわれている。しかし、埋めたまま忘れ去られてしまったのか、土の中から掘り起こされたのは1936年になってからのようだ。

マゴキ・アッタール・モスク

マゴキ・アッタール・モスク

 現在マゴキ・アッタール・モスクの内部はカーペット博物館となっているが、オフシーズンのため休業中で中に入れなかった。外観を眺めたのみであったが、確かに最初からイスラーム教のモスクとして建てられた建物とは思えない特徴を見つけた。入り口の上部両側に、おそらく偶像を設置していたのではないかと思われる窪みがあるのである。古いゾロアスター教寺院は見たことがないので、それがゾロアスター教寺院時代からあったものか特定できないが、少なくとも仏教寺院やヒンドゥー教寺院には見られてもおかしくない特徴である。また、モスクなのにも関わらずメッカの方角を向いていないのではないかという疑問も感じたが、どうやらブハーラーでは西の方角をキブラ(メッカの方向)としているようだ。ちなみにブハーラーの前に観光したヒヴァではキブラは南寄りだった。ヒヴァとブハーラーは450kmほどの距離しかないのだが・・・。

モスクの入り口

モスクの入り口

 ブハーラーには、もうひとつ、土に埋まっていたためにモンゴル軍による破壊を免れた古い建築物がある。ブハーラー旧市街の西側、サーマーニー・パークという公園の中にある、イスマーイール・サーマーニー廟である。9世紀~10世紀にかけて、ブハーラーはイラン系イスラーム王朝サーマーン朝の首都となっていたが、そのサーマーン朝の最盛期を彩ったアミール(太守)、イスマーイール・サーマーニー(在位892-907年)の墓廟がこれである。元々は彼自身が父親アハマド・イブン・アサドのために造った墓廟で、905年に完成したが、後に本人もこの廟に葬られたため、この名で呼ばれるようになった。イスマーイール・サーマーニーは特に、イラン系民族であるタジク人の国家タジキスタンにおいて英雄視されており、紙幣にも肖像が載っている他、同国の貨幣の単位「ソモニ」も「サーマーニー」から取られている。

イスマーイール・サーマーニー廟

イスマーイール・サーマーニー廟

 イスマーイール・サーマーニー廟はテラコッタ・レンガを積み上げた正方形のこぢんまりとした霊廟で、ほぼ建設当初の原型を留めている。上に乗っかったドームのみが後の再建のようだ。デリーに残るサルタナト朝時代の廟建築と形がよく似ており、それらの祖と考えても差し支えなさそうだ。ウズベキスタンに残る壮麗な建築物に比べると単色で派手さに欠けるが、レンガを組み合わせて表情やリズムを巧みに創り出しており、芸術レベルは非常に高い。外面も内面も光によって刻一刻と表情を変え、いつまで見ていても飽きない建築物である。

廟の内部

廟の内部

 ブハーラーの旧市街には1本の高い塔が立っており、遠くからでも視認できるほど目立っている。高さ46m。カラーン・ミーナール(大きな塔)と呼ばれるこのレンガ造りの塔も、チンギス・ハーンの侵略を耐え抜いた建造物である。

カラーン・ミーナール

カラーン・ミーナール

 しかし、さすがにこのような塔建築を地面に埋めて隠すことはできない。チンギス・ハーンもこの塔を目にしたという。では、なぜ破壊されなかったのか。本当かどうか知らないが、以下のような言い伝えが残っている。「地球の歩き方」に載っているエピソードだが、ガイドも同じ話をしてくれたので、一応一般に流布しているものだと思われる。

 チンギス・ハーンがやって来て塔を見上げたら、帽子が落ちてしまった。思わず腰を屈めて拾い上げると、言った。
 「この塔は私に頭を下げさせた立派な塔だ。壊してはいけない。」
 だから塔は破壊されなかったのだという。

 カラーン・ミーナールは、サーマーン朝を滅ぼしてブハーラーの支配者となったカラーハーン朝のアルスラン・ハーンによって1127年に建造された。ブハーラーは地盤が弱く、本当はこのような高い塔を立てるには適していない土地である。そのため、建築家は地面を10mほど掘って基礎を造り、その上にこの塔を建てた。主な目的はアザーン(礼拝の呼び掛け)だろうが、見張り塔という軍事的役割や、シルクロードを行くキャラバンの目印という灯台的役割も果たしていたと考えられる。また、別名を「死の塔」というが、これは、18-19世紀に罪人を塔の上から投げ落として死刑にする目的で使われていたからである。塔の中には105段の螺旋階段があるそうだが、現在は観光客に開放されていない。

 以上が、チンギス・ハーンの侵略以前に建造された建築物である。以下、それ以降の建築物を年代順に紹介して行く。

 上記3つの建築物を除けば、おそらくもっとも古いのがイスマーイール・サーマーニー廟の近くにあるチャシュマ・アイユーブであろう。旧約聖書に出てくるヨブが杖で叩いたところから沸いた泉の上に建っているとされる建物で、それを信じるならば、起源は非常に古いことになる。ただ、レンガ造りの建物自体は14世紀~16世紀の間に増築されていったものである。前から順番に3室あり、その上にそれぞれ異なった形のドームが載っているが、数世紀にわたる増築の名残だと考えられる。

チャシュマ・アイユーブ

チャシュマ・アイユーブ

 チャシュマ・アイユーブはしばしば「霊廟」ともされるが、それはこの建物の一番奥の部屋にヨブのものとされる墓が安置されているからである。ただ、旧約聖書の登場人物の墓がそのまま残っているとは考えにくく、墓自体は後世の追加であろう。墓室の上には珍しいコーン型のドームが乗っかっているが、これはホラズム様式である。真ん中の部屋には井戸があり、今でも水を汲むことができる。また、墓室以外では、水の博物館として、水に関する興味深い展示がしてある。ここの水は不思議な力があると信じられており、地元の人々の信仰対象となっている。

ヨブの井戸

ヨブの井戸

 チンギス・ハーンの侵略から1世紀後、1333年に旅行家イブン・バトゥータがブハーラーを訪れているが、このときにはまだ復興しきれてしていなかったらしい。だが、14世紀後半、ティームール朝の支配下に入ったことで、ブハーラーは徐々に活況を取り戻していったと見える。ティームールの孫でティームール朝第4代のウルグベーグ(1394-1449年、在位1447-49年)が建造したマドラサ(神学校)がブハーラーに残っているからだ。学者として一流だったウルグベーグは帝国内に3つのマドラサを建造したが、ブハーラーの旧市街にあるウルグベーグ・マドラサはそのひとつである。建造は1418年とのことなので、ウルグベーグがまだ20代の頃に造ったことになる。現存する中央アジア最古のマドラサ建築とされている。

ウルグベーグ・マドラサ

ウルグベーグ・マドラサ

 ティームール朝の後、ブハーラーを首都としたブハーラー・ハーン国の時代になり、ブハーラーはかつての栄光を完全に取り戻して、文化、文学、芸術の中心地として栄えた。ブハーラーに残る遺跡の多くはこの時代のものである。その中の主な遺跡の中でももっとも古いと思われるのは、カラーン・ミーナールに隣接するカラーン・モスクであろう。1514年の建造であり、ブハーラー・ハーン国樹立の1500年から間もなく完成したモスクとなる。この地には元からモスクが建っていたが、チンギス・ハーンによって破壊されたとされる。

カラーン・マスジド

カラーン・モスク

 広大な中庭を4つのイーワーン(アーチ型の門およびホール)と回廊が囲んでおり、ミフラーブ(メッカの方向を示す設備)のあるホールの上に青い大きなドームが載っている。208本の柱で支えられた回廊の屋根には288個の小さなドームが並んでいる。このような構造のモスクはイランで発展したもので、デリーではベーガムプル・マスジドが非常に近い。当時中央アジア最大規模のモスクで、1万人を収容できたという。イスラーム都市におけるモスクの大きさは、そのまま当時の人口を推定するのに役立つ。このような巨大モスクは金曜日に男性のイスラーム教徒が集団礼拝するために必要であり、1万人収容可能ということは、少なくともブハーラー中心部に住む成人男性の人口が1万人まで達していた、もしくは達することが期待されたということを示すのだろう。

カラーン・モスク

カラーン・モスク

 カラーン・モスクの正面には、1536年建造のミール・アラブ・マドラサが建っている。ミール・アラブとはナクシュバンディー派(後述)のスーフィー聖者で、このマドラサを建造したウバイドゥッラー・ハーンが傾倒していた人物である。この建物の中には今でもミール・アラブとウバイドゥッラー・ハーンの墓が安置されている。このマドラサは、旧ソ連時代に神学校としての運営を許された数少ない学校であり、今でも神学校として機能している。よって、観光客は入り口までしか見学できない。

ミール・アラブ・マドラサ

ミール・アラブ・マドラサ

 カラーン・モスクとは異なり、玄関口となるイーワーンの両側にひとつずつドームが載っている。中には教室、図書館、食堂、寄宿舎などがあり、7年の教育期間の中でアラビア語、コーラン、イスラーム法などを学ぶという。ここで教育を受けた者が今でも「ブハーリー」という輝かしい称号を得て、広大なイスラーム世界へ羽ばたいていくとのことである。

 カラーン・ミーナール、カラーン・モスク、ミール・アラブ・マドラサがひとつのコンプレックスを形成しているとすれば、ブハーラーのもうひとつの遺跡コンプレックスといえるのが、ラビ・ハウズ周辺の遺跡である。マゴキ・アッタール・モスクの東側にある四角形の貯水湖がラビ・ハウズで、それを囲むように3つの建築物が建っている。その中でも貯水湖の北側に建っているクケルダシュ・マドラサがもっとも古く、アブドゥッラー・ハーン(在位1583-1598年)がハーン位に就く前の1568年に建造したものだ。だが、このラビ・ハウズ・コンプレックスでもっとも重要なのは、貯水湖の東側に建っているナーディル・ディーワーンベーギー・マドラサである。17世紀に大臣を務めたナーディル・ディーワーンベーギーによって1622年に建造された。

ナーディル・ディーワーンベーギー・マドラサ

ナーディル・ディーワーンベーギー・マドラサ

 このマドラサの正面入り口には鳳凰が獲物を掴んで飛翔する絵と、顔のある太陽の絵が描かれている。イスラーム教では偶像を禁止しており、このマドラサはタブーを破っている。ただ、この時代には偶像禁止の戒律も若干ルーズに適用されるようになったようで、想像上の動物や事物なら許容されていたらしい。鳳凰も顔のある太陽も現実世界にはないからOKということのようだ。鳳凰が掴んでいる獲物の種別については諸説あるが、その拡大解釈が本当ならば、これも想像上の動物であろう。

マドラサ正面入り口の絵

マドラサ正面入り口の絵

 この建物は元々キャラヴァンサラーイ(隊商宿)として造られたが、完成式典に訪れたイマームクリー・ハーン(在位1611-42年)がこの建物を指して「マドラサ」といったため、大臣はハーンの命令に逆らえず、仕方なくマドラサとして使用することにしたという言い伝えがある。おそらくキャラヴァンサラーイとして使った方が儲けられたのだろう。

 ナーディル・ディーワーンベーギー・マドラサからラビ・ハウズを挟んで正面にあるのがナーディル・ディーワーンベーギー・ハーナカーで、同じ大臣によって1619年に建造された。ハーナカーというのはスーフィー聖者の修道場である。ラビ・ハウズを中心にこれら3つの建物が向かい合っており、この辺りは今でもブハーラーの人々の憩いの場となっている。

ラビ・ハウズとナーディル・ディーワーンベーギー・ハーナカー

ラビ・ハウズとナーディル・ディーワーンベーギー・ハーナカー

 ラビ・ハウズ自体もナーディル・ディーワンベーギーが1620年に造った。相当力のあった大臣だと思われる。ラビ・ハウズの南側にはユダヤ人居住区があり、シナゴーグ(ユダヤ教寺院)も残っている。かつて、ブハーラーは世界でもっとも多くのユダヤ人が住む街だったようだ。しかし、ソ連崩壊後、ブハーラーのユダヤ人の大半はイスラエルや米国に移住してしまい、現在ブハーラーに残っているユダヤ人の人口は150人ほどになってしまった。

 また、ナーディル・ディーワーンベーギー・マドラサの前にはロバに乗ったホージャー・ナスィールッディーン像があり、地元の人々に人気だ。ホージャー・ナスィールッディーンとは、日本でいえば一休さんのようなトンチの名人で、彼を中心とした様々な逸話やジョーク話がイスラーム世界全体で残り、伝わっている。各国の人がナスィールッディーンの起源や出生地を自分の国だと主張しているわけだが、ブハーラーの人にしてみれば、ナスィールッディーンはブハーラー生まれブハーラー育ちである。よって、ここにホージャー・ナスィールッディーン像が立てられている。

ホージャー・ナスィールッディーン像

ホージャー・ナスィールッディーン像

 ホージャー・ナスィールッディーンのストーリー集を買ったので、その中からひとつだけ逸話を紹介しよう。

 ホージャー・ナスィールッディーンはある村のイマームとなった。イマームとして説法を行う初日、ナスィールッディーンは何を話すか準備をしていなかった。そこでナスィールッディーンはモスクに集まった人々に聞いた。
 「私が今日、何を話すか知っているかね?」
 村人たちは答えた。
 「いいえ、知りません。」
 ナスィールッディーンは、「もし私が何を話すか知らないならば、何も話すことはない」と言って去って行ってしまった。人々は困惑した。
 翌日、ナスィールッディーンはモスクに集まった人々に再び聞いた。
 「私が今日、何を話すか知っているかね?」
 村人たちは今度は「知っています」と答えた。
 すると、ナスィールッディーンは、「もし私が話すことを既に知っているのならば、改めて話す必要はない」と言って去って行ってしまった。人々はさらに困惑した。
 さらに翌日、ナスィールッディーンはモスクに集まった人々に同じ質問を投げ掛けた。
 「私が今日、何を話すか知っているかね?」
 今回は村人たちも相談して答えを決めていた。村人の半分が「はい」と答え、残りの半分が「いいえ」と答えた。
 すると、ナスィールッディーンは、「それならば、知っている者が知らない者に教えてあげなさい」と言って去って行ってしまった。

 アブドゥル・アズィーズ・ハーン(在位1645-80年)はナーディル・ディーワンベーギーと同時代のハーンで、彼が造ったマドラサが、ウルグベーグ・マドラサの正面にあるアブドゥル・アズィーズ・ハーン・マドラサである。実直な印象のウルグベーグ・マドラサと対照的な、カラフルなムカルナス(持ち送り構造の装飾)で彩られた華美な玄関口を持っている。建築物だけを見ても、この頃のブハーラーは相当繁栄していたことが推測される。

アブドゥル・アズィーズ・ハーン・マドラサ

アブドゥル・アズィーズ・ハーン・マドラサ

 18世紀の建造物の筆頭としては、アルクが挙げられる。カラーン・モスクとイスマーイール・サーマーニー廟の間に位置する城塞遺跡で、5世紀頃から居住が認められる。この城こそが、ブハーラーの中心部であった。しかし、支配者の居住区となったことから、度々外敵による侵略と破壊に遭っており、現在残る城壁は18世紀のもの。内部には17世紀の金曜モスクや謁見の間なども残っているが、ほとんどのエリアは廃墟となっており、観光客に開放されているのはほんの一部である。例によって、土産物屋と博物館の集合体と化している。

アルク

アルク

 アルクの正面には、ハーン用に建造されたバーラーハウズ・モスクが建っている。1712年の建築物で、八角形の池に面している。このモスクは別名「40本の柱のモスク」という。モスクの入り口にはクルミの柱が並び、天井を支えているが、その数は20本しかない。では、なぜ「40本の柱の~」というかというと、建物の正面にある池に映った柱を数えることで40本になるというわけだ。また、そばには高さ33mの小さな塔も立っている。この柱や塔はブハーラー・ハーン国最後のアミール、サイイド・アーリム・ハーン(在位1910-20年)の時代に追加された。このモスクは宗教施設として機能しており、靴を脱いで中に入らなければならない。金曜日には人々が集団礼拝に訪れるという。

バーラーハウズ・モスク

バーラーハウズ・モスク

 ブハーラー市内の主な見所の中ではひとつだけ離れた位置にある遺跡がチャール・ミーナールである。ナーディル・ディーワーンベーギー・マドラサよりもさらに東に行ったところにある住宅街の路地裏に建っている。「チャール・ミーナール」とは「4本の塔」という意味。文字通り、4本の塔が印象的な小さな建物だ。これは1807年に裕福なトルクメニスタン商人によって立てられたマドラサの門番小屋だったとされている。しかし、現在ではマドラサは残っておらず、このユニークな建築物だけが残った。インドのハイダラーバードにあるチャール・ミーナールや、アーグラーにあるスィカンドラーなどと少しだけ似た外観だ。やはりオフシーズンのために閉まっており、外から眺めただけだった。

チャール・ミーナール

チャール・ミーナール

 ブハーラーには、「ターキー」と呼ばれる屋根付き市場が3ヶ所残っており、これらも観光ルートの中に組み込まれている。ラビ・ハウズとマゴキ・アッタール・モスクの間にあるのがターキー・サッラーファーン(両替商市場)、アジア・ブハーラーとアブドゥル・アズィーズ・ハーン・マドラサの間にあるのがターキー・テルパクファローシャーン(帽子屋市場)、ウルグベーグ・マドラサとミール・アラブ・マドラサの間にあるのがターキー・ザルガーラーン(宝石屋市場)である。これらの名前は、かつてこれらの市場で軒を連ねていた店の特徴から名付けられたのだろうが、現在ではそれとは関係なく、土産物屋コンプレックスとなっている。

ターキー・サッラーファーン

ターキー・サッラーファーン

 以上でブハーラー市内の主な見所は大体紹介したが、ブハーラーには郊外にもいくつか見所があり、興味に従って足を伸ばすことができる。我々が是非行きたかったのはバハーウッディーン廟であった。ブハーラーから東に約12kmのところにある。

バハーウッディーン廟

バハーウッディーン廟

 バハーウッディーンは、14世紀に生きた著名なスーフィー聖者の一人で、ナクシュバンディー派の開祖である。ナクシュバンディー派はスーフィズムの宗派の中でももっとも勢力を持ち、インドにも伝わった。例えば、デリーのパハール・ガンジ近くにバーキー・ビッラー・ダルガーという聖者廟があるが、ここに埋葬されたバーキー・ビッラーは16世紀のナクシュバンディー派スーフィー聖者であった。バハーウッディーンはブハーラー近郊で生まれ、生地で死んだため、彼の墓廟もその場所に造られた。今でも多くの信者が参拝に訪れており、境内は平和な雰囲気で満たされている。バハーウッディーンの墓は巨大な石の柵で囲まれていて中を見ることもままならない。人々はその墓の近くに座って祈りを捧げていた。

祈りを捧げる人々

祈りを捧げる人々

 ブハーラーを観光できた時間は実質1日だったが、見所は盛りだくさんで、2日は欲しいところだ。観光地を巡るだけでも面白いが、観光地から外れた旧市街の路地を散歩するのも面白そうだった。また、ガイドがブハーラー出身だったため、夕食はガイドの家で食べた。それもいい思い出になった。

 しかしながら、宗教的・学問的な興味からブハーラーに憧れを抱いていたため、宗教色を失った遺跡の数々には正直なところ残念な気持ちも否めなかった。かつて、「神の光は天から差し地を照らす。唯一ブハーラーでは地から光が天を照らし返す」と激賞されたブハーラーの繁栄はどこに行ってしまったのか、と。だが、ミール・アラブ・マドラサやバハーウッディーン廟などにかすかにその名残を見出すことができ、少しだけ救われた気分であった。

「地から光が天を照らし返す」

「地から光が天を照らし返す」

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2017年1月14日 | カテゴリー : 旅誌 | 投稿者 : arukakat