Chornobyl Tour

小学生の頃、突然、「雨に当たってはいけない。はげるから。」と言われ始めたことがあった。遠くの国で大変なことが起こり、危険な物質が風に乗って運ばれて日本まで到達し、それが雨と一緒に落ちて来るというのだ。子供は得てして雨に濡れることを楽しむものだが、それを聞いて恐怖し、以後、なるべく雨には濡れないように心掛けるようになった。今から思い起こせば、それがチェルノブイリの最初の記憶であった。

 1986年4月26日深夜、旧ソビエト連邦のチェルノブイリ地区で稼働していた原子炉のひとつが実験運転中に制御不能に陥って炉心溶融を起こし、水蒸気爆発を起こした。その結果、大量の放射性物質が大気中に放出され、風に乗って近隣諸国に広がり、降り注いだ。国際原子力事象評価尺度で最悪のレベル7と評価される大事故であった。「チェルノブイリ」という一見舌を噛みそうな地名は、当時を生きた全ての人々の脳裏に恐怖と共に半永久的に刻まれた。

チョルノーブィリ(チェルノブイリ)



 それから25年の歳月が過ぎ去り、今度は「フクシマ」が世界の人々に衝撃を与えた。もちろん、「ヒロシマ」と「ナガサキ」によって原子力の災厄と切っても切れない関係にあった日本人にとっては、再度、核の悪夢が蘇ったトラウマ的な出来事であった。と同時に、チェルノブイリ原子力発電所事故と比較される機会が多々あり、改めて「チェルノブイリ」が人々の記憶に刻み直されることとなった。

 現在、チェルノブイリはウクライナの領土内にある。ウクライナを訪れることが決まった際、チェルノブイリは是非行ってみたい場所のひとつとして浮上していた。調べてみると、現在、チェルノブイリは観光地化されており、首都キエフからチェルノブイリを訪れるツアーが人気となっていると言う。ただ、原子力発電所の周囲30kmは規制区域となっており、入域には許可が必要で、個人で行くのは難しい。キエフにはチェルノブイリ・ツアーを催行する業者がいくつもある。外国人は事前にパスポート番号を政府に提出しなければならないので、時間に余裕を持って申し込みをしておかなければならない。ただ、業者にはインターネットを通じて手軽に申し込めるので、現地到着前に手配を完了することは十分可能である。また、日帰りのツアーに加えて、規制区域内の町での宿泊を伴う数日間のツアーもある。2日以上のツアーに関しては、プライベートツアーを申し込む場合は別として、業者によって催行する日が限定されているので、複数の業者の中から自分の旅程に合ったものを選ぶといい。日帰りのツアーはほぼ毎日催行されている。

 今回、いくつかの業者を比較した上で、Chornobyl Tour社の2日間ツアーを申し込んだ。まず、日帰りではなく2日間のツアーにした理由は、当然のことながら、日帰りよりも訪れる場所が多く、各ポイントでの滞在時間も長そうで、チェルノブイリをもっとも楽しめそうだったからだ。次に、同社のツアーに決めた理由は、単純に2日間ツアーの催行日が自分の旅程と合致したからである。3日以上のツアーは頻繁には催行されておらず、希望するならプライベートツアーを申し込む必要がありそうだ。

Chornobyl Tourのオフィスはアンドレイ坂にある

 実際に参加してみて、2日間ツアーに申し込んで正解だったと感じた。やはり日帰りツアーだと参加者の人数が多くて小回りが利かない上に、観光地化された場所しか回らず、行く先々で常に人込みに遭遇することになる。これではチェルノブイリの雰囲気が台無しだ。また、チェルノブイリのツアーは同行するガイドの経験や資質に大きく左右されると感じた。幸い、僕のグループを担当したガイドは非常に有能で、しかも融通が利き、普通は入れない場所にも臆面なく案内してくれた。チェルノブイリのツアーの見所のひとつは、ソ連時代の建物の廃墟を見学できることなのだが、実は安全上の理由から建物内に足を踏み入れるのは禁止されている。ただ、ガイドの裁量で、建物の中にこっそり入れてもらえている状態のようだ。はっきり言って、建物内に入れなかったらツアーの魅力は半減なので、ガイドは非常に重要である。そして、法を犯しているので、ガイドと参加者の間での信頼関係も大事だ。そうなって来ると、やはり大人数の日帰りツアーでは、ここまでしてくれなかったのではないかと感じた。

 もう1点付け加えると、チェルノブイリ原子力発電所の内部に入れるツアーも別にある。ただし、これはプライベートツアーになる。日帰りツアーも団体の2日間ツアーも、原発を外側からしか眺められない。どうせなら内部にも入れたらと思うが、必要な手続きはさらに複雑となり、時と場合によっては許可が下りないこともあるそうだ。よって、それを勘案しても、2日間ツアーがベストバランスだと言える。

 ちなみに、キエフにはチェルノブイリ博物館がある。チェルノブイリを訪れる時間のない人はもちろん、チェルノブイリ・ツアーに行ける人も、実際に訪れる前に見学しておくことを強くお勧めする。音声ガイド(日本語あり)を借りてひとつひとつ聞いて回ると2時間以上かかり、多少冗長な印象も受けるのだが、さすがチェルノブイリに特化した博物館だけのことはあり、チェルノブイリ原発事故のことがとてもよく分かる。日本の広島、長崎、福島に関する展示もあり、日本人にとっては特に意味のある体験となる。また、チェルノブイリ原子発電所事故に関する書物もたくさん出ているので、それらを読んでおくのもいい準備になる。

チェルノブイリ博物館

 チェルノブイリ・ツアーは、たとえ2日間のツアーであっても、朝は早い。キエフ旅客駅(Kyiv-Pasazhyrskyi Railway Station)近くの集合場所に7:30-50に集合だ。また、申込時に申告した番号のパスポートを持参しなければならない。規制区域入域の際にチェックされるからだ。さらに、申込時に頭金しか払っていない場合は、点呼のときに残金を支払わなければならない。バスは8時には問答無用で出発してしまうとのことだったが、日帰りツアーと集合時間・集合場所が同じこともあって、多少の混乱があり、点呼に手間取っていた。結局出発したのは8時15分頃であった。今回、2日間のツアーに参加したのは、18人乗りのミニバス2台に分乗した計30名ほどであった。基本的にはミニバスに同乗したグループごとにガイドが付いて、分かれて現地を巡ったため、全員の国籍は確認していないが、同じグループにはトルコ人、英国人、カナダ人、オランダ人などがいた。日本人は僕一人であった。ガイドの言語は英語である。

 人口約290万人の都会であるキエフを出てしばらく経つと、周囲の風景は次第に牧歌的なものとなって来る。牛が牧草を食んでいたり、馬が草原に佇んでいたりする。特に鮮烈なのは、地平線の彼方まで延々と続く黄色いヒマワリ畑だった。そういえば福島原子力発電所事故が起こったときに、ヒマワリを植えると放射性物質を浄化してくれるようなことが言われていたことを思い出した。

チェルノブイリ地区に咲き誇るヒマワリ畑

 ウクライナは肥沃な黒土を擁するヨーロッパ有数の農業国である。だが、チェルノブイリ周辺には黒土がなく、農業不適の土地だった。その理由から、ここにチェルノブイリ原子力発電所が建造されたらしい。また、キエフからちょうどいい距離にあることや、プリピャチ河が流れていることも、選定の理由となったとされる。

 駅から1時間15分ほどでディティヤトキ村(Dytiatky)のチェックポストに到着した。このチェックポストを越えると30kmゾーンとなる。通常、ここでの入域手続きに掛かる時間は30-40分ほどのようなのだが、このときはそれ以上に時間が掛かってしまった。その待ち時間を見越して、このチェックポストにはちゃっかり売店があり、チェルノブイリ・グッズを購入したり、軽食や飲み物を調達できたりする。ちなみに、2日間ツアーの1日目は昼食の時間がないので、自分でサンドイッチなどを持参してバス移動中に食べることになる。ここにはトイレもある。これより先、ホテルまでまともなトイレがないので、この入域手続きのときにトイレを済ませておくのは重要である。

チェックポストの売店

 チェックポストでは、まずEチケットを渡される。このEチケットに、事前に申告したパスポート番号が記載されており、これが現物のパスポートと一致しないと入域できない。チェルノブイリ・ツアーでは大抵、オプションでガイガー・カウンターを借りることもできるが、それもここで渡される。ガイガー・カウンターは、リアルタイムで放射線量を測定しており、それが設定値を越えると警報を鳴らす。設定値が低すぎると、規制区域内で鳴りっぱなしになるので、2.5μSv/h辺りを設定値にしてもらった。このくらいだと、線量の特に高い場所で鳴るくらいである。ちなみに、2.5μSv/hというのは、その場所に1時間いると2.5μSvの線量を浴びるということである。ちなみに、飛行機に乗ると7.4μSv/hの線量を浴び、東京からニューヨークまで飛行機に乗って往復すると、合計110-160μSvの線量を浴びると言う。

ガイガー・カウンター
背景は「赤の森」

 チェックポストを越えると、越えた先でまたバスを降りて、もう一度Eチケットを見せることになる。ここで首から提げる認証タグを渡される。Eチケットにはバーコードが付いており、それを読み取り機で認証タグに紐付けし、入域者を管理しているようである。

 これが30kmのチェックポストで、そこでの手続きを全て終えて道を進んで行くと、今度はレリヴ(Leliv)のチェックポストがある。ここから先が10kmゾーンとなる。ここでのチェックはそれ程厳しくなく、ガイドが手続きをしにバスを降りたが、参加者が降りる必要はなく、ほとんど素通り状態であった。

 10kmゾーン入域前には、原発事故以来、強制移住によって廃墟となった村を見た。植物が生い茂る中、もぬけの殻となった家屋を巡る。多くの家は今にも崩壊しそうなほど傷んでおり、屋内にはほとんど何も残されていなかったが、中には家具や衣服などがそのまま残されている家もあった。

とある民家の中には寝具などが残っていた
窓際では蛾の死体が・・・
前衛芸術的な廃墟
事故前は快適だったであろう台所

 10kmゾーン入域後、まずはプリピャチ(Prypiat)市の入り口で降りた。ここには「プリピャチ」と書かれた看板がある他、有名な「赤い森」にもっとも近いエリアでもある。「赤い森」という名前は、原発事故時に大量の放射性物質が降り注ぎ、松林が枯死して赤く変色したことから名付けられた。松林は伐採されてその場に埋められ、その上に新たな松の木が植林された。規制区域内で最も線量の高い地域で、道路から森の方へ近づいた途端にガイガー・カウンターが鳴り出す。森の方向へ足を踏み入れれば踏み入れるほど線量が上がって行くそうだが、道路から計測した限りでも5.0μSv/hを越えるレベルであった。ただし、上述の通り、この程度の放射線量ならば、飛行機に乗って滞空しているときよりも低い。

プリピャチ市の看板
市は1970年に開かれた

 ところで、プリピャチ市とは、チェルノブイリ原子力発電所にもっとも近い都市の名前である。この地に原子力発電所が建設されたとき、もっとも近い既存の町がチェルノブイリ市だったために「チェルノブイリ原子力発電所」と命名されたが、チェルノブイリ市は実際には原発から結構離れた場所にある。一方、原発で働く作業員とその家族のために、原発近くに新たにプリピャチ市が造られた。最盛期は5万人の人口を擁していたという。原発の安全性と有用性を内外にアピールするために、優先的に電気が供給され、エレベーター付きの高層住宅街、数々の文化施設、最新の医療施設が建設された、文明の理想郷であった。ソ連の他の町で夜には電灯が消されて真っ暗になっていたところを、このプリピャチ市では夜を通して煌々と電気が灯っていたとされる。さらに、共産主義思想を体現して、市内に教会などの宗教施設が全く造られなかった。住民の平均年齢は26歳。若者で溢れた活気のある町だったようだ。原発事故が発生したとき(正確には事故から36時間後)、この町の住民は全員強制退去となり、一夜にしてゴーストタウンとなった。おかげでソ連時代に栄華を誇った町の町並みが廃墟となりながらもよく残っており、往事へタイムスリップを体験することができる。プリピャチ市の散策は、チェルノブイリ・ツアーのハイライトのひとつである。

原発事故前に撮られたプリピャチ市の写真と現在を比較

 ここで助言だが、はっきり言ってチェルノブイリ・ツアーはほとんどトレッキングに等しい。ガラスの破片が散らばった廃墟の中に入って行ったり、水たまりや泥沼のある道を進んで行ったり、木の枝をかき分けて道を作って行ったりしなければならないため、トレッキングの格好をして参加すべきである。具体的には、まず靴が大事で、トレッキングシューズ以上の頑丈で歩きやすい靴が必要であるし、衣服も長袖・長ズボンが絶対に必要だ。一方で、蚊に注意と言われていたが、7月のこの季節には蚊が全くいなかった。季節によっては肌の露出部分に虫除けスプレーなどを掛ける必要が出てくる。また、懐中電灯などがあると、より廃墟の探索が面白くなる。1日目の昼頃には突然雷雨に降られた。天候次第だが、雨具も必要になることがあるだろう。

真っ暗闇の中を歩く場面もある

 では、ここからはプリピャチ市で撮った写真を掲載する。今回ばかりは、言葉を尽くしてあれこれ語るよりも、現地で撮影した豊富な写真の中から厳選して掲載し、雰囲気を感じ取ってもらった方がいいだろう。カメラはFujifilmのX-T3、廃墟の雰囲気を出すためにフィルムシミュレーション「Classic Chrome」を使って撮影した。使用したレンズはほとんどがXF16-55 F2.8で、時々、広角撮影するためにXF10-24 F4を使った。基本的には団体行動なので、ゆっくりカメラを構えたりレンズを交換したりしている暇は少ない。ズームレンズの方が便利だし、事足りたが、暗闇での撮影も多いので、明るいレンズを1本持っておくと役に立つときもあるだろう。

プリピャチ市の病院廊下
病室か実験室か
ガラス製のビーカーが並ぶ
まだ薬品が入った瓶もある
カルテであろうか、手書きのノートが散乱する
雨漏りのするところでは床が苔むしている
教訓か何かを図像化したカード
これも病室であろうか
子供用のベッドが廊下の隅に
分娩台
カルテが残る
古い写真が貼られている
ステンドグラスが美しいカフェ
自動販売機
分娩台が外にも
学校の教室
文化施設
マーケット
幼稚園
不気味な人形
学校の廊下
図書室
理科室
割れた窓ガラスから教室を覗く
体育館
古いレコード
学校の広間
遊園地の観覧車
遊園地の乗り物
鹿の群れを描いた壁画
水たまりに映る観覧車
プール
17階建てマンションから4号炉を臨む

 以上が1日目に巡ったプリピャチ市で撮影した写真の数々である。2日間のツアーなので、この後、宿泊する。宿泊の際、10kmゾーンは出るが、30kmゾーンは出ない。今回宿泊したのは、30kmゾーン内にあるチェルノブイリ市のホテル・デシアトカである。共有バスルームの簡易宿泊施設で、食堂が付いている。規制区域特有の規則があるようで、アルコールは午後7時から10時の間しか飲めない。Wi-Fiは利用できた。午後7時頃にホテルに到着し、7時15分から夕食を食べた。シンプルな家庭料理であった。

ホテル・デシアトカ

 翌日は午前8時半に朝食で、9時にはホテルを出発した。まずは散歩がてら、チェルノブイリ市を少しだけ見て回った。原発事故によって住民が強制退去となり、そのまま廃村となった集落の名前が並ぶ小路があった。 ここには、廃村になった集落の住民に手紙を届けられるポストや、日本とウクライナの友好を記念して建てられたモニュメント、そしてレーニン像などもあった。 現在、ウクライナでレーニン像が残っているのはここだけと聞いている。どうも政府は「旧ソ連」が金になると察知したらしく、旧ソ連らしさを出すために、ここにレーニン像を残しているらしい。

廃村の名前が並ぶ小路

 2日目午前のメインはDUGA-1である。DUGAとはソ連が開発したミサイル防衛レーダーシステムで、初めて実戦配備されたのが、チェルノブイリ近くにあるこのDUGA-1である。鉄で組まれたこの超巨大なレーダーは北米からのミサイル攻撃を早期発見するために建設された。主に2つのアンテナから構成されており、高周波数アンテナは高さ150m、幅500m、低周波数アンテナは高さ100m、幅250mである。このレーダーを稼働させるためには10MWの電力を必要としたため、電力が安定供給できるチェルノブイリ原子力発電所の近くに建設された。

DUGA-1

 DUGA-1の近くには、軍人やその家族が住むための居住地も作られた。往事には1,000人ほどが住んでいたとされる。軍人にレーダーに関する知識を教える学校がある他、通常の学校や文化施設などもあり、プリピャチ市の小型版といったところである。

DUGA-1周辺の地図
倉庫であろうか
ガスマスクが並ぶ
巨大なレーダー
レーダー施設内部
レーダー学校
配管
キーボード
未来的な絵が描かれている
レーダー施設の廊下
空を分断する巨大な鉄の帆桁
謎の落書き
見覚えのある影が・・・
アンテナのクローズアップ
プロパガンダ壁画
レーダー基地勤務軍人用のアパート階段
朽ち果てたアパート内部
LPガス
レーダー施設内の学校体育館
学校の廊下
学校の一室
元素周期表
今でも音の出るオルガン
学校の一室
文化施設のチケット窓口
映画館
体育館

 DUGA-1を見終えた後は、バスに乗って移動し、コパチ(Kopachi)という廃村に着いた。原発事故後、ここには特に大量の放射性物質が降り注いだとされている。住民が強制移住させられたのはもちろんのこと、建物も全て破壊されて地中に埋められた。そのように聞いていたのだが、一応残っている建物はいくつかあった。今回巡ったポイントの中では、非常に高い放射線量を計測しており、ガイガー・カウンターが何度も鳴った。村の外れには錆び付いたバスが残っており、コパチのシンボルとなっている。

コパチのバス

 コパチを見終わった後は再びバスに乗り、いよいよ原発エリアへと接近する。まずは4号炉がよく見える場所で一時停車し、写真を撮影した。

4号炉

 4号炉こそは、1986年4月26日に水蒸気爆発を起こした原子炉である。事故後、半年間の突貫工事によって、損傷した原子炉はコンクリートによって覆われた。これが旧閉じ込め構造物、いわゆる「石棺」である。石棺のおかげで放射性物質の放出はかなり防がれたが、急場しのぎの構造物のため、その耐用年数は30年と言われており、風雨にさらされ老朽化が進んで来ていた。そのため、最近新たに「アーチ」と呼ばれる鉄製のカバーで石棺ごと覆ってしまった。それが上の写真に見えるカマボコ状の構造物である。 しかも、その工事方法は非常にユニークなもので、石棺の上でアーチが組まれたのではなく、原子炉から180m離れた場所で建造され、スライド移動させることで原子炉を覆うという前代未聞のものだった。もちろん、原子炉近くで工事をすると被ばく線量が多くなるので、それを避けるための工法である。

 チェルノブイリ原子力発電所には、5号炉も建造中であった。だが、事故が起きたために工事は中止され、そのまま放置されることになった。次に向かったのはその5号炉である。個人的には、ここが一番面白かった。

5号炉

 5号炉は周囲に建設用クレーンが林立したままの未完の原子炉だが、内部は迷宮のように複雑に入り組んでおり、ガイドの案内がなければ、一度中に入ったが最後、出口になかなか辿り着けない。また、中は外部の光が届かないところが多くて概して暗く、急に足場のない箇所や穴場があったりして、探索には懐中電灯などが必須である。原子炉やタービンを設置すべき場所も残っていて、原発の構造の勉強になる。何より、5号炉の中を歩いていると、ピラミッドか何かの古代遺跡の探索している気分になり、興奮する。これは現代の古代遺跡である。

入り口は閉ざされているが・・・
隙間から光が差す
放置された建設用クレーン
原子炉が設置されるべきだった場所
ガイドなしには迷子必至
タービン設置箇所
建設途中の外壁
ホイスト式クレーン
5号炉の上からは4号炉がよく見える

 5号炉への潜入を終えた後は昼食となる。5号炉の近くには原発作業員用の食堂があり、観光客も利用できる。旧ソ連型の食堂システム、というより、日本の大学によくある食堂システム、と形容した方が分かりやすいだろう。トレイを持って列に並び、自分の好きな品物を載せて行って、最後にレジで会計となる。唯一違うのは、食堂に入る際に放射性物質チェックがあることである。体に付着した放射性物質が一定レベルを越えると入場できないという。この放射性物質チェックは、規制区域を出るときにも義務づけられている。食事の味にはあまり期待しない方がいいが、食べられないことはなかった。なお、食堂に着いた時間が14時頃で、14時半頃には食堂を出た。

食堂
放射性物質チェック
食堂の食事

 昼食後は、チェルノブイリ原発事故の主役、4号炉の間近まで迫った。4号炉北西に記念碑と展望デッキが設けられており、一般の観光客はここまで来て写真撮影をすることができる。ガイガー・カウンターで放射線量をチェックしてみると、あのレベル7の事故を起こした原子炉の間近であっても、1μSv/h以下であった。ここはチェルノブイリ・ツアーの最大の見所であるため、観光客がひっきりなしにやって来る。

「アーチ」で覆われた4号炉と記念碑

 次に訪れたのは冷却塔である。5号炉の近くに、円錐台状の構造物がある。ひとつは上部まで完成しており、もうひとつは下部のみの状態である。冷却塔は、原子炉を冷やすために使って熱を持った水を、河に放出する前に冷却する施設だ。上部から水を垂らすことで落下中の空気との接触で冷却する空冷式だ。調べてみたところ、日本の原子炉は全て海沿いに建造されており、冷却用の水を使用後そのまま海に流してしまうため、冷却塔は持っていないという。

冷却塔

 最寄りのポイントまでバスで行って下車した後、上部まで完成している方の冷却塔の中まで歩いて行った。DUGA-1も巨大な建造物だったが、この冷却塔も十分に巨大で、思わず見上げてしまう。未完成の5号炉は「現代の古代遺跡」と表現したが、この冷却塔は何らかの宗教施設のように感じられた。冷却塔の内部は吹き抜けの空洞となっており、上を見上げると、人間の侵入に驚いたのか、鳥が飛び立つのが見えた。そういえば、ゾロアスター教徒の鳥葬の場である「沈黙の塔」について、勝手にこのような建造物をイメージしていた。冷却塔もまた非常に放射線量の強い場所で、ガイガー・カウンターが鳴るポイントがいくつかあった。概ね2μSv/h以上あった。

冷却塔へは「Stand By Me」のように線路の上を歩いて行く
冷却塔近景
内部から上を見上げる
ナイスな落書きもあった

 2日間に渡るチェルノブイリ・ツアーもいよいよ終わりに差し掛かった。最後に、再移住者が住む家を訪ねた。10kmゾーンを出て、どこかで側道にそれ、しばらく細い道を進んで行ったところにある村の、とある民家だった。原発事故後、原発周辺に住んでいた人々は強制移住させられたのだが、その内の何人かはチェルノブイリ規制区域内に戻って来た。彼らは再移住者(リセットラー)と呼ばれている。政府の募集に応じて合法的に帰って来た人もいるが、無許可で勝手に帰って来て住んでいる人もいる。今回訪ねたのは、合法的に帰って来た再移住者である。そのような再移住者の第一世代は現在2名しか残っておらず、今回訪ねたお爺さんも、もう80歳以上になっていて、その内いなくなってしまうだろう。元々チェルノブイリ原発で警備員をしていた人で、事故後、一度は規制区域外に住んだが、政府の応募に応じて規制区域内の放射線量が低い場所に再定住し、そのまま暮らしているという。再定住者の家を訪ねたのは、今回のツアー参加客の誰かが強く希望を出したからのようで、一般的な2日間ツアーでは訪れないかもしれない。

再定住者の家

 実は、再定住者の他に、チェルノブイリ規制区域内には、「ストーカー」と呼ばれる違法住民のコミュニティーがあると言われている。ストーカーたちは、当局に見つからないように、夜間に移動を繰り返しながら、プリピャチ市などの廃墟で暮らしている。チェルノブイリ・ツアーでは、各所で落書きを目にするが、それらの多くはストーカーたちが描いたものである。中には、上の冷却塔のもののように、芸術性の高いものもあったりする。ストーカーの存在はミステリアスでもあり、チェルノブイリ・ツアーの隠れた魅力になっている。

 30kmゾーンとの境目であるディティヤトキ村のチェックポストを出たのは午後6時頃であった。午後6時半にはゲートが閉まってしまうという。ここで認証タグを返し、ガイガー・カウンターも回収される。ガイガー・カウンターは、蓄積された放射線量も計測している。2日間規制区域にいたが、その間に被ばくした放射線量は7μSv、つまり0.007mSvだった。日本人の平均年間被ばく線量は5.98mSvとされている。それを365で割ると0.016。つまり、1日の平均被ばく線量は0.016mSvで、2日間の平均被ばく線量は0.032mSv。単純計算すると、日本の被ばく線量の1/4~1/5ということになる。「チェルノブイリ」という名前の割には全く大した事のない線量だ。キエフに到着したのは午後8時頃であった。

 総じて、チェルノブイリ・ツアーは一生モノのツアーであった。個人的には、ウクライナ旅行のついでに訪れたようなものだったが、その中でのもっとも忘れられない時間となったし、このツアーに参加するためだけにウクライナに来ていた参加者がいたのもうなずけた。わざわざ事故を起こした原発を見に行く物好きな人が世界にはたくさんいることに、自分を棚に上げてではあるが、とても驚いた。彼らは、福島第一原子力発電所についても、同様のツアーがあったら是非参加したいと言っていた。参加者の雰囲気は、ガイガー・カウンターが鳴ると大喜び、おどろおどろしい場所へ自らズンズン進んで行く、というものだ。

 日本人としては、やはり福島の将来を考えながらのツアーともなった。福島よりも酷いとされる原発事故から30年経ったここチェルノブイリで、観光客が嬉々として廃墟を巡っている様子を見ると、どこか楽観的な未来を感じることもできた。福島にも、事故後、放棄された町や村がたくさんある。そのような場所は、30年後、もしかしたら平成の町並みや村の様子が保存されたタイムカプセルのような存在になり、多くの観光客が昔を偲ぶために、もしくは廃墟を楽しむために、訪れるようになるのかもしれない。大量の放射性物質が降り注いだ「赤の森」は、人間が近づかなくなったために、かえって野生生物の楽園となっているとも聞く。規制区域内に住む再定住者も、豊かな自然の中に暮らしているため、実は都市部に住む同世代の人々よりも寿命が長い傾向にあるのではないか、という話まである。さらには、福島第一原子力発電所の事故を起こした原子炉も、チェルノブイリのように、何らかの構造物で覆われるようになるのだろうか、と考えずにはいられなかった。我々日本人は、チェルノブイリから学ぶこと、感じることがたくさんある。全ての日本人に、チェルノブイリ・ツアーをお勧めしたい。

世界を救った人々の記念碑
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Chornobyl Tour」への1件のフィードバック

  1. i just feel my poor life.
    i just read and respect your mighty reporting mission.
    thank you, spaceboo, yoshio…

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